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英語原文
自我と自我の傾向
基本的用語
この『自我と自我の傾向』を「この著作」と呼べる。この著作のいくつかの部分は『感覚とイメージの想起』を基礎として書かれている。だから、できればその著作を読んだ後でこの著作を読んでいただきたい。だが、その著作を読まなくてもこの著作が読めるよう筆者らは努める。『感覚とイメージの想起』とこの著作と『悪循環に陥る傾向への直面』を「これらの著作」と呼べる。これらの著作は一つの著作を構成する章とも見なせる。これらの著作を一つの著作として『心理学三部作』とも呼べる。これらの著作と『生存と自由』と『生存と自由の詳細』と『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』と『特定のものと一般のもの』も「これらの著作」と呼べる。
この著作では、物質、生物、身体、動物、人間、神経系、神経細胞群、機能、生物機能、身体機能、動物機能、人間機能、神経機能、神経細胞群の興奮伝達、物、それらが存在し機能すること、現れるもの、イメージとして現れるもの、イメージ、イメージの素材、感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想、認識…などの言葉は『感覚とイメージの想起』で指されているものと同じものを指す。いずれにしても、神経系は身体の部分であり、身体は生物に含まれ、生物は物質に含まれ、神経機能は身体機能に含まれ、身体機能は生物機能に含まれる。神経機能は感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想、認識…などを含む。
『生存と自由』『生存と自由の詳細』では動物の種、人間の種が重要であるから、動物、人間という言葉は通常、それらの種を指した。それに対して、これらの著作では、それらの個体が重要であるから、動物、人間という言葉は通常、それらの個体を指す。
随意運動、純粋心的機能、総合機能、自律機能
随意運動
以下で説明する単位的随意運動と複合随意運動を「随意運動」と呼べる。
大脳の前頭葉の運動野から脊髄と運動神経を経てまたは脳神経を経て横紋筋に至る神経細胞群の興奮伝達と横紋筋細胞群の興奮と収縮から生じ、それ以上、分離できない身体の部分の動きを「単位的随意運動」と呼べる。単位的随意運動は関節の屈伸、舌の上下左右運動と屈伸、声帯の開閉と緊張弛緩、眼球の上下左右運動と回転運動、顔の部分の緊張弛緩を含む。
複数の単位的随意運動から構成される運動を「複合随意運動」と呼べる。例えば、人間の直立二足歩行は、左肩関節前屈、右肩関節後屈、左股関節後屈、右股関節前屈…などの単位的随意運動から構成される複合随意運動である。脊椎動物の複合随意運動は歩く、走る、泳ぐ、飛ぶ、鳴き声を出すことを含む。人間の複合随意運動は直立二足歩行、直立二足で走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐことを含む。ところで、人間が言葉を話すことは後述する総合機能に含まれる。何故なら、自分が話した言葉を知覚しながら、それらが正しいか確認し、言葉の内容を思考しながら私たちは言葉を話しているからである。また、言葉を書くこととタイプライター、コンピューター、その他の機械を操作することも総合機能に含まれる。
随意運動は後述する意識的機能に含まれる。
純粋心的機能
感覚またはイメージの想起を含み、随意運動を含まない機能を「純粋心的機能」と呼べる。純粋心的機能は感覚、イメージの想起、知覚、連想、快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動、自我、イメージの操作、思考を含む。
イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、自我、思考はイメージの想起を含む。感覚、快不快の感覚、欲動はイメージの想起を含まない。
総合機能
純粋心的機能と随意運動を含む機能を「総合機能」と呼べる。人間の総合機能は、言葉を話す、言葉を書く、遊ぶ、勉強する、仕事をする、対人機能を含む。例えば、人間が言葉を話すことは、自分が話した言葉を知覚し、それらが正しいか確認し、言葉の内容を考え、口、舌、喉頭…などを動かすことであり、少なくとも知覚と認識と思考と随意運動を含む。だから、それは総合機能である。
そのように人間の機能を見ていくと、それらの多くは総合機能である。
対人機能
他の人間と話をする遊ぶ勉強する仕事をする、付き合う別れる、争う仲直りする、人を避ける…などの他の人間の同様の機能と係る総合機能を「対人機能」と呼べる。対人機能は人間が生存するために最も重要な機能である。だからこそ対人不安、対人期待、対人欲求、対人回避、対人直面…などがあり、重大である。すべての人間が多かれ少なかれそれらをもつまたはする。
直面と回避については『悪循環に陥る傾向への直面』で説明する。対人機能は対人直面と対人回避を含む。簡単に言って、対人不安があっても人と付き合うことが対人直面である。それに対して、対人不安があるから人を避けることが対人回避である。人と争うことと対人直面は同一では全くない。そのことを忘れないでいただきたい。人と争うことは対人直面であるより対人回避であることが多い。人と和解することは対人直面であることが多い。対人回避には単純なそれらと複雑なそれらがある。例えば、対人不安のために職場や学校に行かないことは単純な対人回避であり、うすっぺらいことしか話さない、近寄り難い雰囲気を作るは複雑な対人回避である。
心的機能
純粋心的機能と総合機能を「心的機能」と呼べる。
自律機能
感覚、記憶、随意運動を含まない身体機能を「自律機能」と呼べる。自律機能は、心臓、血管、肺の収縮拡張、消化管の運動、消化、吸収、内分泌、外分泌、免疫を含む。ところで、少なくとも人間と高等な哺乳類では直腸からの排便、膀胱からの排尿は純粋な自律機能ではない。何故ならそれらは随意運動を含むからである。それに対して、膀胱までの排尿、直腸までの消化管運動は自律機能である。
本能的機能
さらにそれらのいずれにも分類しにくい機能がある。感覚を含み『感覚とイメージの想起』で説明された記憶のうちの狭義の認識の部分をふくむがそれ以外の記憶の部分を含まない機能がある。そのような機能を「本能的」機能と呼べる。例えば、人間の大人が乳首を吸うことは随意運動または総合機能である。大人が乳首を吸うとすれば、自我がそうしよと思ってそうしている。新生児にも新生児なりの幼い自我があるが、それらが乳首を吸うことは自我が機能しなくても生じる。そのように人間においては、大人においては随意運動または総合機能だが、新生児、乳児においては本能的機能であるものがある。
本能的機能のいくつかは、『悪循環に陥る傾向への直面』で説明される人間の新生児にも見られる短絡、自暴自棄、粘着、自己顕示、なんでも支配すること、何でも破壊すること…などの原初的概略に分類される。そのような本能的機能の原初的概略を少なくとも人間を含む哺乳類の新生児が大なり小なりもつ。
状況
物質または機能の「状況」という言葉は『感覚とイメージの想起』で定義された。この章では補足する。「状況」という言葉では個体の状況、つまり、個体の身体の外部にあるもの、つまり、他のいくつかの人間、他のいくつかの動物、自然のいくつかの部分がイメージされがちである。だが、個体の身体の部分や部分の機能に関する限りで、それらの状況のある部分は個体の身体の中にあり他の部分はその外にある。例えば、個人が対人不安に襲われ、対人関係を回避する方法を考えるとき、そのような思考の主要な状況はそのような不安でありそれは個体の身体の中にある。対人不安が特定の人々によって増強されたとすれば、それらの人々はその不安の状況の部分であり、その部分は個体の身体の外にある。個体の身体の部分と部分の機能に関する限りで、個体の身体の中の部分を「内的状況」または身体状況と呼べ、個体の身体の外の部分を「外的状況」と呼べる。前述の例では、そのような不安はそのような思考の内的状況であり、そのような人々はそのような不安の外的状況である。
生物学と心理学と医学では個体の身体の部分と部分の機能が問題になることが多いので、内的状況と外的状況の区別が他の科学より重要である。だが、一般に状況という言葉は外的状況を指すことが多い。この著作でもときにそのような言葉の使い方をすることにする。
対象、手段
ほとんどの機能は対象と手段と状況を属性としてもつ。例えば、対人機能について、一般の人間がその対象である。また、話し言葉、書き言葉、電話、メール…などがその手段である。また、職場、学校…などがその外的状況であり、対人不安、対人欲求…などがその内的状況である。
情動
情動
快不快の感覚を主要部分とする機能を情動と呼べる。情動はこの章で説明される快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動から成る。
快不快の感覚
『感覚とイメージの想起』で定義されたとおり、快不快を属性としてもつ感覚で現れるものを「快不快の感覚で現れるもの」と呼べる。また、それらを生じると前提される神経機能を快不快の感覚と呼べる。例えば、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、吐き気が快不快という属性である。嗅覚で現れるもの、平衡感覚で現れるもの、味覚で現れるもの、体性感覚で現れるもの、自律感覚で現れるものは、そのような快不快を属性としてもち、快不快の感覚で現れるものである。また、嗅覚、平衡感覚、味覚、体性感覚、自律感覚は快不快の感覚である。快不快の感覚で現れるものの中の、快の属性が優勢な空間的時間的部分を「快の感覚で現れるもの」と呼べ、不快の属性が優勢な空間的時間的部分を「不快の感覚で現れるもの」と呼べる。
皮膚、骨、横紋筋、健の痛さ、痒さ、暑さ、寒さは快不快の体性感覚で現れるものの属性であり、動悸、息苦しさ、吐き気、飢え、渇きは快不快の自律感覚で現れるものの属性である。
視覚、聴覚を除く感覚は快不快の感覚である。視覚、聴覚は快不快の感覚ではない。例えば、眼、耳の痛さは体性感覚または自律感覚で現れるものまたは精神的苦痛を表す比喩である。
直接的間接的に、快不快の感覚は、記憶、イメージの想起、知覚、連想など…の純粋心的機能だけでなく、神経系、特に自律神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な自律機能を生じる。例えば、皮膚の痛さはその痛さの知覚だけでなく動悸、発汗…などを自律神経系、内分泌系…などを介して間接的に生じる。
欲動
以下の属性をもつ身体機能を「欲動」と呼べる。
(d1)快不快の感覚を含む。
(d2)それに固有の機能がほとんど生じないとき、それに固有の不快の感覚が生じる。
(d3)それに固有の機能がある程度、生じるとき、(d2)の不快の感覚が減少し、それに固有の快の感覚が生じる。
(d4)それに固有の機能が過度に生じるとき、それに固有の不快の感覚が生じることがある。
(d5)数時間、数日、数か月毎にそれらが反復することがある。
まず、食欲、飲水欲が欲動に含まれることは明らかである。前者を「摂食欲動」とも呼び、後者を「飲水欲動」とも呼ぶことにする。次に、性欲はそれらほど明らかでないが、欲動に含まれる。それを「性的欲動」と呼べる。また、群れようとする欲動、支配しようとする欲動、防衛しようとする欲動、子供を育てる欲動…などがありえる。
(d1)~(d5)のうち(d2)を欲動「不満」、欲動が満足されないことと呼べ、(d3)を欲動「満足」、欲動が満足されることと呼べ、(d4)を欲動飽満、欲動に辟易することともべる。
快不快の感覚と欲動は、進化の中で発生した機能であり、既にある程度は動物の遺伝子と個体と集団と種が生存するのに適した機能になっている。例えば、快不快の体性感覚に含まれる皮膚の痛さは外傷が皮膚より深い重要な器官に及ぶのを防ぐ。快不快の自律感覚に含まれる動悸、息苦しさは過労を防ぐ。食欲と飲水欲は栄養失調と脱水を防ぐ。性的欲動はほとんどの動物の種の生存に決定的な機能である。
『感覚とイメージの想起』の要約
『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、飢え、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「(心的現象として)現れるもの」と呼べる。
心的現象として現れるものは感覚で現れるものとイメージ(=イメージとして現れるもの)に大別される。感覚で現れるものは視覚で現れるもの、聴覚で現れるもの…などに大別される。
簡単に言って、思い浮かぶもの、思い出されるもの、予期されるもの、想像されるもの、思考されるもの…などがイメージである。イメージのうち、それ以上分離できない単位的なイメージを「個々のイメージ」、個々のイメージとして現れるものと呼べる。
他の個々のイメージまたは感覚で現れるものより、空間的時間的に近くで現れる複数の個々のイメージを「複合イメージとして現れるもの」、複合イメージ、イメージとして現れるもの、イメージと呼べる。方法、機能、一般的なもの、抽象的なもの…などはすべて複合イメージとして現れるのであって、個々のイメージとして現れるのではない。そこで、これらの著作ではイメージという言葉は通常、複合イメージを指す。
厳密には複合イメージとして現れるものと知覚で現れるものと連想で現れるものは区別される。だが、これらの著作で重要なのは複合イメージである。また、それらを逐次、区別していると文章が煩雑になる。だから、知覚で現れるものと連想で現れるものを複合イメージとして現れるものに含め、それらを複合イメージ、複合イメージとして現れるもの、イメージ、またはイメージとして現れるものと呼ぶことにする。
心的現象として現れるものを素材として生じると前提されるものそのものをそれらの「素材」と呼べ、特に、イメージを素材として生じると前提されるものそのものをイメージの素材と呼べる。だが、イメージとイメージの素材を逐次、区別していると文章が煩雑になる。だから、イメージの素材をイメージと呼ぶことがあることにする。つまり、イメージという言葉はイメージもイメージの素材も指しうる。
もののイメージを生じると前提される神経機能をイメージ(の素材)のまたはものの「想起」または想起またはイメージ(の素材)が想起されることまたはものがイメージとして想起されることと呼べる。「想起」という言葉は、日常では過去の出来事が思い出されることを意味しがちだが、過去のものだけでなく、現在のものを考えること、未来のものを予期すること、非現実的なことを空想すること、夢を見ること…なども指すことにする。
感覚の素材のいくつかの部分のそれぞれがもついくつかの属性が認識され、その部分が切り取られて、個々のイメージの素材が生成する。一時に複数の個々のイメージの素材が生成し、次々と分岐する神経細胞群の中を通って同類性に基づいて分類される。そのように生成し分類されたそれぞれの個々のイメージの素材が分岐する神経細胞群の中の単位的神経細胞群に記銘され保持される。
そのような単位的神経細胞群の間には神経細胞路が存在する。それらの間にある神経細胞路を「個々のイメージの素材の間の神経細胞路」または「イメージイメージ神経細胞路」と呼べる。この著作で後に説明されるイメージ情動神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能機能神経細胞路との区別を強調する場合は、イメージイメージ神経細胞路という言葉を用いることにする。それらが興奮し伝達することによって、多数の個々のイメージの素材が空間的時間的に近くで生起し想起されえ、複合イメージを構成しえ、複合イメージ(の素材)が想起されえる。
個々のイメージの素材の間の神経細胞路(イメージイメージ神経細胞路)は、(1)類似性に基づいてイメージを想起させる神経細胞路と(2)時間的近さに基づいてイメージを想起させる神経細胞路に区別される。(1)は次々と分岐する記憶の神経細胞路の中にあり、個々のイメージの素材が認識と類似性に基づいて生起することを可能にする。(1)によって特に一般のものが複合イメージとして想起されることが可能になる。例えば、わたしたちがワニと遭遇したとき、(1)によって一般のワニの複合イメージが想起され、それがワニとして知覚され認識され、その危険性が連想される。その特定のワニが危険かどうかを吟味するまでもなく、私たちは即座に逃げる。もし、特定のワニ、虎、ライオン…などが危険かどうか吟味していたら、わたしたちは生存していないだろう。(2)は個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群の間にそれぞれの種類の記憶を超えて広く分布する。ものが時間的に近くで感覚され知覚され認識され個々のイメージとして生成するときに、それらの個々のイメージの素材間の(2)が活性化される。それらが繰り返されるときにそれらの能力が維持される。次回にそれらの個々のイメージの素材のいくつかが興奮し伝達したとき、それらの活性化された神経細胞路が興奮し伝達し、他の個々のイメージの素材が興奮し伝達する。結局、時間的に近くで生成した個々のイメージが空間的時間的に近くで生起し想起されまたは連想され、それらが時間的近さに基づいて複合イメージまたは連想で現れるものを構成する。時間的に近くで生じる物事のいくつかは原因と結果であり、主として(2)によって原因と結果が複合イメージとして想起されるまたは連想される。前の例では、一般にワニが危険であることが知られていた。例えば、犬や猫は一般に危険とは言えない。ある子供が犬に咬まれてかなり痛い目にあったとすれば、その子の神経系の中で、時間的近さに基づいて、犬のイメージと咬まれる、痛いというイメージの間の神経細胞路が活性化され、その子は犬を恐れるようになる。そのように主として同類性に基づくとともに時間的近さに基づいて、複合イメージの想起、知覚、連想が生じる。
(1)(2)の能力はイメージの想起、知覚、連想、自我、思考…などの能力または傾向の少なからぬ部分を占める。だが、(1)は主として先天的に活性化されており、それらの能力または傾向の個体差をあまり生じない。(2)は前述にのようにして後天的に活性化され、それらの能力または傾向の個体差を生じる。だから、わたしたちにとって(1)より(2)が問題になる。
イメージを記銘保持する神経細胞群から再生へと向かう神経細胞群は収束し、最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮し伝達する素材が他の素材を立ち消えさせて再生に達する。だから、一時に限られた数(N)以下のイメージが想起される。ただし、その限られた数(N)は状況により変動する。例えば、一つのイメージが非常に強く想起されるとき、Nは小さくなる。いずれにしても数(N)は限られている。だから、イメージの想起は限定機能である。
自律感覚
自律神経を含む感覚を「(快不快の)自律感覚」と呼べる。腹痛、頭痛、動悸、息苦しさ、吐き気、飢え、渇き…などが自律感覚で現れるものである。自律感覚は視覚、聴覚のような単一の機能とは考えられない。例えば、動悸と息苦しさと吐き気と飢えと渇きなどの異質なものが単一の機能から生じるとは考えられない。そこで、個体の中でも自律感覚(複数形)、自律感覚(複数形)で現れるもののように複数形を用いるのが適切である。自律神経は組織学的には平滑筋、心筋、粘膜…などに、解剖学的には心臓、血管、肺、消化管…などに分布するので、自律感覚は心臓、血管、肺の収縮拡張、消化管の運動、粘膜の炎症、血液の浸透圧、酸素濃度、グルコース濃度…などの内的状況を伝達する。それらは、動悸、息苦しさ、空腹、口渇、吐き気、腹痛、頭痛…などとして自律感覚で現れる。
前述のとおり、快不快の感覚のほとんどは、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などだけでなく、神経系、特に自律神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な自律機能を生じる。例えば、快不快の体性感覚に含まれる皮膚の痛さは自律神経系を介して心拍数の上昇、血圧の上昇…などを生じる。
さらに、快不快の感覚が生じる自律機能のほとんどは動悸、息苦しさ、吐き気…などとして快不快の自律感覚で感覚される。つまり、快不快の感覚のほとんどは自律感覚を生じる。さらに自律感覚のほとんどは他の自律感覚を生じる。例えば、息苦しさ、吐き気、頭痛、腹痛は動悸を生じる。
結局、情動はすべて快不快の感覚を含み、快不快の感覚のほとんどは自律感覚を生じるので、ほとんどの情動は自律感覚を生じる。そのことを忘れないで頂きたい。
快不快の自律感覚の機能
不快の感覚と欲動不満が生じていることは遺伝子、個体、集団または種の生存が危険に晒されていることである。例えば、皮膚に痛みが生じていることは、傷が皮膚より深部の器官に及び個体の生存が危険に晒されていることである。そのようなとき自律機能は危険を防ぐ反撃、逃走、隠遁…などを生じる準備をする。例えば、心拍数、血圧、呼吸数を増加させ随意運動によって消費されるであろう酸素の供給に備える。そのような自律機能は、まるで動物に危険を警告するように、不快と自律感覚で感覚され、不快の自律感覚が生じる。例えば、激しい動悸、息苦しさが生じ、それは不快である。そのように不快の感覚と欲動不満は一般に不快の自律感覚を生じる。
だが、いつも危険を避ける機能とそのような機能を準備する自律機能が生じていたのでは、人間を含む動物は疲労困憊し生存できない。心臓や血管も疲弊する。不快の感覚と欲動不満がないときは、自律機能は動物が休むまたは眠り疲労から回復する準備をする。例えば、心拍数、血圧、呼吸数を下げ、消化管運動を亢進し消化吸収、代謝排泄を促す。そのような自律機能は、まるで警告を解除し休養を勧めるかのように、快として自律感覚で感覚され、快の自律感覚を生じる。例えば、かすかな動悸と穏やかな呼吸と適度な空腹を生じ、それらは快である。そのように、不快の感覚と欲動不満の欠如は快の自律感覚を生じることがある。
また、不快が減少するだけでも快の自律感覚が生じることがある。例えば、人間だけかもしれないが、激しい痛みが和らいだだけでも動悸、息苦しさが減退するのが感じられる。
さらに、不快の自律感覚は同種または異種の不快の自律感覚を生じえる。例えば、動悸や息苦しさはさらに激しいそれらや吐き気を生じる。それは動物に二重に危険を警告をするかのようである。
認識から本能的機能へ
『感覚とイメージの想起』で説明されたように、感覚の素材のいくつかの部分がもついくつかの属性を認識(狭義の認識)する神経細胞群が存在し、それらからイメージを生成し記銘保持する記憶の神経細胞群が始まる。だが、系統発生及び個体発生上、それらの記憶の神経細胞群の発生は以下のものよりだいぶん後である。
食物、淡水、性的対象、天敵…などの生存に決定的なものを認識(狭義の認識)する神経細胞群(1)が存在する。また、摂食、飲水、交尾、反撃または逃走…などのそれらの対象と手段を処理する随意運動を含む機能を生じる神経細胞群(3)が存在する。また、記憶、広義の認識…などの高度の機能を生じる神経細胞群または神経細胞路と異なる、(1)から(2)への直接的または間接的な神経細胞路(3)が存在する。(1)(2)(3)の興奮伝達によって前述の本能的機能が生じる。(2)が狭義の認識が本能的機能を生じることを可能にする。例えば、天敵が認識され、その狭義の認識が即座に逃げる、隠れる…などの本能的機能を生じる。また、(2)が快不快の感覚と欲動を生じる神経細胞群にも達することがある。そのような(2)によって快不快の感覚と欲動が狭義の認識から生じることが可能になる。例えば、性的対象が認識され、そのような狭義の認識が性的欲動を生じることがある。次の節で説明するイメージ情動神経細胞路は、そのような(2)から進化したということはありえる。
イメージ情動神経細胞路
イメージの素材が通る記憶の神経細胞群の枝から自律感覚を生じる神経細胞群に向けていくつかの神経細胞路が存在する。あるものが認識されイメージとして生成し記銘され保持され、そのものが何らかの情動を生じ何らかの自律感覚を強く持続的または反復的に生じたとき、時間的近さに基づいてそのもののイメージの素材が通る神経細胞群の枝からそれらの自律感覚を生じる神経細胞群への神経細胞路が活性化されその能力が維持される。次回にそのものが感覚されまたはイメージとして想起され認識されたときに、それらの活性化された神経細胞路が興奮し伝達し、それらの自律感覚が生じる。それが後述する感情である。そのような神経細胞路を、「そのもののイメージの素材が通る神経細胞群」という言葉を「そのもののイメージの素材」という言葉に簡略化し、それらの「自律感覚を生じる神経細胞群」という言葉をそれらの「自律感覚」という言葉に簡略化して、そのもののイメージの素材からそれらの自律感覚へのイメージ情動神経細胞路と呼べる。それらの神経細胞路は先天的に活性化されていない。それらは前述のようにして時間的近さに基づいて後天的に活性化される。
感情
繰り返すが、あるものが認識されイメージとして生成し記銘保持され更新され、そのものが何らかの情動を生じ何らかの自律感覚を強く持続的または反復的に生じたとき、時間的近さに基づいてそのもののイメージの素材(イメージの素材が通る神経細胞群)からそれらの自律感覚(自律感覚を生じる神経細胞群)へのイメージ情動神経細胞路が活性化されその能力が維持される。次回にそのものが感覚されまたはイメージとして想起され認識されたとき、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの自律感覚が生じる。そのことにおいて、そのもののイメージの素材とそのものの感覚または想起と認識とそれらのイメージ情動神経細胞路の興奮伝達とそれらの自律感覚をそのものについての、そのものへの、そのものに対する「感情」と呼べる。また、そのものを感情の対象と呼べる。
例えば、母親に虐待される乳児の身体、特に神経系の中で、
(1)母親の冷酷な表情が認識されイメージとして想起され記銘保持され更新される。
(2)母親に叩かれることによって皮膚の痛さが生じ、その痛さによって動悸、息苦しさなどの不快の自律感覚が生じる。
(1)(2)が繰り返されたとき、母親の冷酷な表情のイメージの素材からそれらの不快の自律感覚を生じる神経細胞群に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次に母親の冷酷な表情のイメージの素材がイメージとし想起され認識されたときに、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの不快の自律感覚が生じる。それが特定の人間または一般の人間に対する不安または恐怖という感情である。それに対して、乳児に飢えや渇きが生じているときに、母親がだっこをして授乳することを繰り返すと、乳児の身体、特に神経系の中で、母親のイメージの生成と更新と飢えと渇きの減退による適度な動悸とスムーズな呼吸という快の自律感覚が同時に生じ、母親のイメージの素材からそれらの快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。すると、母親のイメージが想起されたときにそれらの快の自律感覚が生じるようになる。それが特定の人間または一般の人間に対する期待という感情である。
感情は不安、恐怖、期待、安心、他人に対する感嘆、自己に対する感嘆、他人に対する嫌悪、自己嫌悪、孤独、被疎外感、被迫害感を含む。
感情の一部はいわゆる「条件付け」の一部と重なる。例えば、パブロフの犬でさえも食物とベルの音に対するかすかな期待を抱いていたかもしれない。人間だけでなく、少なくとも高等な哺乳類が感情をもつ。また、前述の例のように、人間の乳児は単純な感情をもつ。当然、幼児期以降の人間は多様で複雑な感情をもつ。
感情の対象の広がり
感情の対象は以下のようにして広がっていく。
感情は主として(Ⅰ)対象の感覚またはイメージとしての想起と認識、(Ⅱ)(Ⅰ)によるイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と(Ⅲ)(Ⅱ)による自律感覚から成る。
第一に、(Ⅰ)の前に連想があり、連想の内容が感情の対象に見え、連想の内容と(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)が感情のように見えることがある。例えば、(Ⅰ)職場や学校での対人関係の想起と認識から直接的に(Ⅱ)(Ⅲ)が生じ、対人不安が生じるだけでなく、その建物の知覚と認識から連想を介して対人関係の想起と認識が生じ、(Ⅱ)(Ⅲ)が生じることはよくある。それらを繰り返しているうちにその建物のイメージの素材から不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化され、その建物の知覚と認識が連想なしでそれらの自律感覚を生じるようになる。これは感情に含まれる。まず、そのようにして感情の対象は広がる。さらに、感情の定義を広げて、そのような知覚と連想と(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)という見かけの感情も感情と呼び、感情に含めることにする。また、そのような知覚と連想の内容も感情の対象と呼び、感情の対象に含めることにする。
それに対して、連想がなくても、既存の対象に対して既存の感情が生じている間に、偶然にでも別の物が感覚されまたはイメージとして想起され認識されたとき、その感情の対象は後者に広がりえる。例えば、ある種の虫に対する恐怖を既にもっている子供が無害な灌木からその種の虫が飛び出すのを見たとき、その灌木にも恐怖をもつようになることはありえる。第二に感情の対象はそのような偶然の同時発生によっても広がりえる。
感情の対象がそのように広がっていくとともに、感情自体、以下のように増強もし減弱もする。『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、神経細胞群または細胞路の能力は長時間の断続的な繰り返しによって増大または持続し、それがないことによって減少する。そのことはイメージ情動神経細胞路の能力についても言える。だから、感情は繰り返しによって増強され、繰り返しがないことによって減弱する。例えば、虐待、いじめ、疎外…などが繰り返され、対人不安が繰り返されるなら、それは増強または持続し、温厚な人間関係が数か月から数年、続くなら、対人不安はあまり生じず減弱することがある。そもそも、感情の対象が広がるだけなら、また、感情が増強または維持されるだけで減弱しないなら、人生は過酷過ぎてわたしたちは生きていないだろう。
そのような対象の広がりと感情そのものの増強、維持、減弱は後述する欲求にも当てはまる。『欲求』の節では、上の説明を省略することにする。
快の自律感覚が優勢な感情を「快の感情」と呼び、不快の自律感覚が優勢な感覚を「不快の感情」と呼ぶことにする。一見したところ、それらの区別は曖昧だが、後述する機能的衝動を生じるまたは促進するかしないかによって区別できる。快の感情は期待、安心を含み、不快の感情は不安、恐怖、他人に対する嫌悪、自己嫌悪、孤独、被疎外感、被迫害感を含む。そのように見ていくと、不快の感情のほうが豊富であり重要であることが分かる。
先天的形成、後天的形成、遺伝子によって受け継がれる部分、遺伝子以外のものによって伝承される部分
ここが先天的形成、後天的形成、遺伝子によって受け継がれるもの、遺伝子以外のものによって伝承されるものを説明する絶好の場所だろう。
生物の全体または部分と機能、能力、傾向を含むそれらの属性、それらの属性の属性…など、つまり、生物に係るすべてのものは、一方で遺伝子と遺伝子機能によって他方でそれら以外のものによって生成し、または、形成され、または、変化する。前者を(遺伝子による)「先天的」形成、(遺伝子によって)先天的に形成されることと呼べ、後者を「後天的」形成、後天的に形成されることと呼べる。だが、それらのそれぞれは形成の全体を構成する部分であって、生物に係るものはすべて、先天的かつ後天的に形成される。例えば、通常の状況があれば動物の身体は遺伝子によって先天的に形成されるように見えるが、与えられたにせよ自ら獲得したにせよ、それらの通常の状況による形成は後天的形成である。だが、異常な状況においても、動物の身体の形成において遺伝子による先天的形成が重要であることに変わりはない。問題は先天的形成が優勢か後天的形成が優勢かである。だから、「ほとんど」「主として」「同程度に」「部分的に」などの言葉が「先天的」または「先天的に」または「後天的」または「後天的に」という言葉を修飾する必要がある。
ところで、分娩までの形成と先天的形成は同一ではなく、分娩後の形成と後天的形成は同一ではない。例えば、人間の神経系は分娩時には未熟だが、最初の三年間に飛躍的に発達し、思春期に完成し発達は終わる。そのような神経系そのものの形成は分娩後のものも含めて主として先天的形成である。傷害について、例えば、分娩前の胎児期に、母親の低栄養や薬物乱用によって、胎児の神経系が障害を被ったとすれば、その障害は主として後天的に形成されたのである。
一般に、身体、器官、組織、細胞などの生物の全体と部分、つまり、物質そのものは主として先天的に形成される。神経系そのものも主として先天的に形成される。
それに対して、神経系の機能、つまり、神経機能とそれらの能力または傾向についてはどうだろうか。ところで、神経細胞群は神経細胞路を含む。だが、そのことを強調する必要がある場合は、「神経細胞群または神経細胞路」「神経細胞路を含む神経細胞群」という言葉を用い、そうでない場合は「神経細胞群」という言葉を用いることにする。また、神経系は感覚器を含み、神経細胞群は感覚細胞群を含み、それらについても同様の言葉を用いることにする。
多くの神経細胞群は、成熟した時点で、必然的機能を生じるのに十分な能力をもっている。そのことをそれらが(遺伝子によって)(主として)先天的に活性化されていることと呼べ、そのような神経細胞群を先天的に活性化される神経細胞群と呼べる。それに対して、いくつかの神経細胞群はそうではなく、活性化され能力を増して必然的機能を生じるのに十分な能力をもつようになる。そのことをそれらが(主として)後天的に活性化されることと呼べ、そのような神経細胞群を後天的に活性化される神経細胞群と呼べる。
すべてが先天的に活性化される神経細胞群から生じる神経機能は、神経細胞群がある程度、成熟した時点で問題なく生じ、実質的にそれらの能力または傾向の形成は問題とならない。それらの能力または傾向が主として先天的に形成されることは言うまでもない。そのような神経機能を先天的機能と呼べる。本能的機能、感覚、快不快の感覚、欲動、自律機能は先天的機能である。例えば、心拍数、血圧…などを調整する自律機能とミルクを吸う、泣く…などの本能的機能の能力は胎生末期にほとんど成熟している。そうでないと人間の赤ちゃんも生存できない。また、人間の新生児において視力と聴力は十分ではないが、それはそれらの感覚器がまだ成熟していないからである。もう少し詳しく言うと、羊水中での発達から空気中での発達への切り替えがなされなければならないからである。それらの感覚器が数週間後または数か月後にある程度、成熟するとき、視力も聴力も満足のいくものになる。
先天的機能において問題になるのは、能力または傾向の形成ではなく、それらの機能を生じる神経細胞群の障害と老化によるそれらの機能の能力または傾向の低下である。例えば、視力、聴力は一般に老化によって徐々に低下し、白内障、緑内障、中耳炎、脳血管障害…などの障害によって急激にまたは徐々に低下する。
それに対して、いくつかの神経機能は、後天的に活性化される部分を含む神経細胞群から生じ、それらの能力または傾向はそれらの部分が後天的に活性化されることによって形成される。そのような神経機能の能力または傾向は主として後天的に形成されると言える。そのような神経機能を後天的機能と呼べる。例えば、前述のとおり、感情の傾向はイメージ情動神経細胞路が後天的に活性化されることによって形成され、感情は後天的機能である。一般にイメージの想起の傾向、精神的情動の傾向、自我の傾向、思考の能力、総合機能の能力は主として後天的に形成され、それらの機能は後天的機能である。
そのように神経細胞群が先天的に活性化されるか後天的に活性化されるかは、神経機能の能力または傾向の形成において先天的形成が優勢か後天的形成が優勢かを決定する最善の試金石である。さらに、特別なものが見つかった。個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群と時間的近さに基づくそれらの間の神経細胞路は後天的に活性化され、類似性に基づくそれらの間の神経細胞路は主として先天的に活性化され、それらの三つの種類の神経細胞群または神経細胞路の興奮伝達が複合イメージの想起と感覚的イメージの想起を生じる。だが、そもそも、次のことが言える。感覚されたばかりのいくつかの感覚の素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が切り取られて、個体の中で初めて個々のイメージの素材が生成する。その後で、個々のイメージが複合イメージと感覚的イメージを構成する。個々のイメージがなければ、複合イメージも感覚的イメージも現れず、記憶はないに等しい。だから、イメージの素材そのものはすべて後天的に生成すると言え、「ほとんど」「主として」…などの修飾語を省略できる。個人におけるイメージの素材はいわゆる「知識」である。つまり、知識は後天的に形成される。これはわたしたちの日常的理解と経験論と心理学と矛盾しない。
イメージの素材またはイメージそのものに対して、イメージの素材の生成に係る認識、切り取り…などの神経機能を生じる神経細胞群は主として先天的に活性化されており、それらの神経機能の能力は主として先天的に形成される。そのことは「知識の内容は後天的に形成され、知識の枠組みは主として先天的に形成される」と表現できる。より一般的には、イメージの想起や記憶の「枠組み」は主として先天的に形成され、それらの「内容」は後天的に形成されると言える。
前述のとおり、イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動、自我、思考、総合機能…などの機能の能力または傾向は主として後天的に形成され、それらの機能は後天的機能である。さらに、それらの機能はイメージの素材を含む。だからなおさら、それらの機能の能力または傾向は主として後天的に形成され、それらの機能は先天的機能である。
さらに、能力と傾向を内容に含めて、それらの機能の枠組みは主として先天的に形成され、それらの機能の内容は主として後天的に形成されると言える。
さらに、イメージの想起、自我は後述する限定機能であり、限定機能は被限定機能を含む。被限定機能の傾向は主として後天的に形成され、被限定機能はイメージの素材を含み、被限定機能は後天的機能である。限定機能の中で傾向が最も大きい被限定機能が生じる。それらの機能、つまり、イメージの想起と自我について、イメージの素材または被限定機能をそれらの機能の内容と見なし、それら以外をそれらの機能の枠組みと見なし、それらの内容は主として後天的に形成され、枠組みは主として先天的に生成すると言える。
特に自我の傾向が主として後天的に形成されることは重要なことである。いわゆる「人格」の大部分を自我の傾向が占める。だから、いわゆる人格は主として後天的に形成されると言える。
さて、これまでは主として純粋心的機能の能力または傾向の先天的または後天的形成を説明してきた。それに対して、随意運動と随意運動を含む総合機能についてはどうだろうか。
横紋筋の収縮力は(先天的形成と後天的形成に関して)均等に形成される。例えば、それらはいわゆる「筋トレ」によって増強する。数か月寝たきりだと、全身の筋力が低下し、座ることも立つことも歩くこともままならない。それに対して、いわゆる「筋肉質」な体格はある。単位的随意運動に関する限りで、それらの能力は主としていくつかの横紋筋の収縮力から、副次的に関節の柔軟性と安定性から構成される。だから、単位的随意運動の能力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。
単位的随意運動の能力に対して、複合随意運動の能力は、それを構成する単位的随意運動の能力だけでなく後天的に活性化される機能機能神経細胞路の能力も含むので、主として後天的に形成される。総合機能の能力についてはこの著作の後半の章で詳しく説明するが、それらだけでなく他の種類の後天的に活性化される神経細胞路の能力も含むのでなおさら主として後天的に形成される。
横紋筋に対して、平滑筋と心筋の収縮力は主として先天的に形成される。また、自律神経系の神経細胞群または神経細胞路の能力は主として先天的に形成される。だから、自律機能の能力または傾向は主として先天的に形成される。
さて、人間にとって重要なものをまとめる。
(1)能力または傾向が主として先天的に形成される機能:
感覚、快不快の感覚、欲動、本能的機能、自律機能
(2)能力が(先天的形成と後天的形成に関して)均等に形成される機能
単位的随意運動
(3)能力または傾向が主として後天的に形成される機能
複合随意運動、イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動、自我、思考、総合機能
(4)完全に後天的に生成するもの
イメージの素材、イメージ、知識
さらに、「主として」という修飾語を省略して、以下の表現をこれらの著作ではすることがあることにする。
(1)の機能(の能力または傾向)は(遺伝子によって)先天的に形成される。
(1)の機能は先天的機能である。
(3)の機能(の能力または傾向)は後天的に形成される。
(3)の機能は後天的機能である。
そのように見ていくと、人間にとって最も重要なものは(主として)後天的に形成されることが分かる。
先天的に形成されるものは遺伝子によって受け継がれ、進化する。それに対して、後天的に形成されるものは遺伝子によって受け継がれず、進化しない。一方で、それは残念な気もする。他方で、人間の個人は遺伝と進化の束縛から自由であるような気もする。
後天的機能の内容である能力、傾向と記憶の内容である知識または観念は、遺伝子によって受け継がれるのではなく、言語などの媒介と様々な人工物によって世代を超えて伝承され蓄積される。その蓄積されたものが文化、慣習、法、制度、科学技術…などである。
また、後天的に形成されるものは先天的に形成されるものより個人差が著しい。この個人差、特に人格の個人差こそが人間にとって最も重要で面白いものではないだろうか。
だが、人間にとって重要な機能の内容と能力または傾向は後天的に形成されるが、それらの枠組みは遺伝子によって先天的に形成され、自然淘汰の中で進化してきた。枠組みが形成されなければ内容も形成されない。その意味で、人間にとっても遺伝子と進化は重要である。簡単に言って、進化してきた人間の脳は重要である。この節での内容と枠組みの定義に従うと、以下は一概に比喩的表現ではなくなるだろう。遺伝子と進化が人間の個体に枠組みを与え、人間がその枠組みの中で内容を創造する。
過去の快と不快を活かし、未来に快を増大または維持し不快を減退させ、生存を確保すること
過去にいくつかの対象が強く持続的または反復的な不快の情動を生じたとき、それらの情動が不快の自律感覚を生じ、それらの対象のイメージの素材からそれらの不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にそれらの対象が知覚されまたはイメージとして想起され認識されたとき、それらのイメージの素材がそれらの活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮伝達とそれらの不快の自律感覚を生じる。それがそれらの対象に対する不安または恐怖という感情である。そのような感情をもつ人間を含む動物は前もってそれらの対象を免れえる。強く持続的なまたは反復的な不快の情動を生じるような対象は通常、動物の遺伝子と個体と集団と種が生存するのに危険なものである。感情があり、過去に多少の痛さを経験したなら、動物はそのような危険な対象を知覚しただけで恐怖を感じ逃走できる。感情をもつ動物は生存の危険を前もって免れえる。そのように感情は過去の快と不快を活かし、未来に快を増大または維持し不快を減少させ、生存を確保する機能である。それは後述する欲求、複合的情動、自我にも当てはまる。
進化の中では「適者」が生存することは明らかだが、その「適者」とは個体なのか集団なのか種なのか遺伝子なのかという論争があった。遺伝子が適者であるという主張が優勢である。つまり、進化はまず、遺伝子の生存を保障し、結果として個体や集団や種の生存を保障する。それに対して、感情や欲求や自我…などの後天的機能の枠組みは遺伝し進化するが、それらの内容は遺伝せず進化しない。それらの内容は、第一に個体の生存を保障する。それが結果として集団や種や遺伝子の生存を保障するのかは『生存と自由』で議論される。
もし、それらの内容が人間の種や生物の生存に適さないものであった場合、進化にできることはそれらの枠組みを生存に適した内容を容れるように変えることだけである。そのような進化による変化は非現実的過ぎて誰も考えないだろう。私たち人間にできることは自らが作り出したそれらの内容を変えることだけである。
対象の切迫度
感情の対象は切迫度を属性としてもつ。切迫した対象ほど、連想の中で強く頻回に想起され、結果としてそれを対象とする感情が強く頻回に生じる。例えば、重要な催し物が差し迫るほど不安と期待が強く頻回に生じる。
欲求
いくつかのものはそれと何らかの形で関係する個人や個体に快の情動をもたらす。そのようなものは人間においては具体的、抽象的、物質的、精神的でありえる。例えば、大金を持つことは食欲満足、飲水欲満足、生活の快適さ…などをもたらす。また、賞を得ることは栄誉をもたらし、恋人と付き合うことは性欲満足だけでなく様々な快の情動をもたらす。それらが繰り返されるとき、そのものと何らかの形で関係することのイメージの素材からそれらの快の情動から生じる快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にそのものと何らかの形で関係することが知覚されまたはイメージとして想起され認識されたときに、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの快の自律感覚が生じる。そのことにおける、そのものと何らかの形で関係することの知覚またはイメージとしての想起と認識とイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と快の自律感覚を、そのものへの「欲求」またはそのもと何らかの形で関係しようとする欲求と呼べる。また、そのものまたはそのものと何らかの形で関係することを欲求の対象と呼べる。また、そのものまたはそのものと何らかの形で関係することのイメージを欲求の対象イメージと呼べる。
欲求の対象と何らかの形で関係することができたときには前に例を挙げたような快の情動と快の自律感覚が生じる。そのことを欲求満足と呼べる。また、欲求が生じたのに対象と関係することができないときは悔さ、悲しみ、不安…などの不快の感情が生じる。そのことを欲求不満と呼べる。また、過度に対象を得られたまたは持てたまたは対象と関係することができたときは辟易、空虚などの不快の感情が生じることがある。それを欲求飽満または欲求辟易と呼べる。
具体的で物質的なものだけでなく抽象的で精神的なものや人間関係や状況も欲求の対象になりえる。例えば、権力、カネ、食糧、水、性的対象…などだけでなく、名誉、栄光、賞、資格、能力、技能、人格、人間性、職業、友人、恋人、配偶者、家族、家庭、趣味、都会生活、田舎生活、健康、独立、自由…なども欲求の対象になりえる。
ここで欲求と欲動の関係について説明する。欲求の根底に快不快の感覚と欲動がある。例えば、食欲、飲水欲、性欲を満たすためには、ある程度のカネと権力を得なければならず、カネへの欲求、権力への欲求が形成される。欲動は先天的機能であり、欲動の枠組みと傾向は主として先天的に形成される。それに対して、欲求は後天的機能であり、欲求の枠組みは先天的に形成され欲求の傾向は後天的に形成される。また、欲求の傾向には個人差が大きい。例えば、カネへの欲求より権力欲求のほうが強い人もいればその逆の人もいる。
簡単に言って欲求は、対象イメージの素材から快の自律感覚が生じることであり、(快の)感情に含まれ、対象が少し複雑になっただけである。だが、欲求以外の感情を(狭義の)感情と呼ぶことにする。
いくつかの欲求の部分は「条件付け」の部分と重なる。
欲求の対象の当初の対象から詳細な手段への偏向
欲求の対象は感情と同様に広がりえる。そのような広がりが欲求においては本来の対象から詳細な手段への偏向となることが多い。例えば、権力は本来、人間が他人を支配するための手段に過ぎない。だが、やがて大なり小なり、権力欲求が形成され、ほとんどの人間が権力闘争に埋没し、現代社会では学歴への欲求、資格への欲求、地位や昇進への欲求…などが形成されていく。欲求の対象の本来的な対象から詳細な手段への偏向は、人間社会の現実を反映していると言える。その偏向は政治的経済的生活の中だけでなくわたしたちの日常生活の中にもある。わたしたちはときにその偏向のいくつかを後悔する。
複合的情動
主としていくつかの感情または欲求から構成され、いくつかの快不快の感覚または欲動を含むことがあり、一般に一つの機能と認識されている機能を「複合的情動」と呼べる。また、複合的情動の主要構成要素である感情または欲求の対象を複合的情動の対象と呼べる。
いわゆる「愛」は主として特定のまたは一般の人間または生物または物質への欲求から構成され、性的欲動と群れようとする欲動を伴うことが多く、母親においては子供に係る欲動、欲求、感情を伴うことが多く、孤独への不安、対人期待または対人欲求、真善美への感嘆、永遠への欲求…などを含むことがある複合的情動である。そもそも例えば、異性愛または同性愛、親の子供へ愛、子供の親へお愛、学者の真理への愛、芸術家の美への愛…などの様々なものを「愛」という単一の言葉で指すことが間違っているのだろう。
ニーチェのいう「権力への意志」は単なる権力欲求とは異なる。だが、単なる権力欲求でさえも主として(狭義の)権力欲求と支配欲求と(あるとすれば)支配欲動から構成され、カネへの欲求、永遠への欲求…などを含むことがある複合的情動であると言える。
だが、複合的情動において一つの感情または一つの欲求が優勢なとき、それをその感情または欲求の名前で指すことがあることにする。すると前述の複合的情動はやはり権力欲求と呼べる。
また、快の感情または欲求満足が優勢な情動を快の複合的情動と呼べ、不快の感情または欲求不満または欲求飽満が優勢な複合的情動を不快の複合的情動と呼べる。例えば、特定の人への欲求の不満が優勢な愛は不快の愛である。それは「失恋」と呼べるときがある。
快か不快
快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を「情動」と呼べる。
快の感覚、欲動満足、快の感情、欲求満足、快の複合的情動を快の情動または快楽とも呼べ、不快の感覚、欲動不満、欲動飽満、不快の感情、欲求不満、欲求飽満、不快の複合的情動を不快の情動または不快または「苦痛」と呼べる。不可算名詞としての「苦痛」という言葉は身体的苦痛も精神的苦痛も意味する。また、不快という言葉より苦痛という言葉のほうが日常的によく使われる。そこで、これらの著作でも苦痛という言葉を多用することにする。
快不快の感覚、欲動を「身体的情動」と呼べる。快の感覚、欲動満足を身体的快の情動または身体的快楽と呼べ、不快の感覚、欲動不満、欲動飽満を身体的不快の情動または身体的不快または身体的苦痛と呼べる。
感情、欲求、複合的情動を「精神的情動」と呼べる。快の感情、欲求満足、快の複合的情動を精神的快の情動または精神的快楽とも呼べ、不快の感情、欲求不満、欲求飽満、不快の複合的情動を精神的不快の情動または精神的不快または精神的苦痛と呼べる。
情動の対象
感情と欲求と複合的情動の対象は既に定義された。ここでは、快不快の感覚、欲動の対象を定義する。それらは間接的に感情または欲求を間接的に形成する。例えば、皮膚の痛みはそれを生じる外傷、炎症…などに対する恐怖を間接的に形成し、食欲は食べ物に対する欲求を間接的に形成する。快不快の感覚または欲動が形成する感情または欲求の対象を快不快の感覚または欲動の対象と呼べる。
意識的機能
機能イメージと意識的機能
少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体の中で、いくつかの機能は、想起されたそれらの機能のイメージの素材のいくつかと他のいくつかの機能(X)から生じえる。想起されたそれらの機能のイメージの素材のいくつかと他のいくつかの機能(X)から生じえる機能を「意識的機能」と呼べ、それらを他のいくつかの機能(X)とともに生じえるイメージの素材をその「機能イメージ(の素材)」と呼べる。簡単に言って、機能イメージは「いかにするか」または方法のイメージである。例えば、わたしたちが肘関節を曲げているとき、そうすることが機能イメージとして想起されており、肘関節を曲げることは意識的機能である。だが、もっと複雑な意識的機能の例を挙げるほうが分かりやすいと思う。例えば、人に何かを説得するとき、どう説得するかを考えており、そこでは、説得する言葉や言葉の内容や口調や態度のイメージが想起されている。それらが機能イメージであり、説得は意識的機能である。
イメージの素材は後天的に生成し記銘保持される。機能イメージの素材もそうである。だから、例えば、「肘」「関節」「屈曲」「右左」のイメージが生成していない新生児では、右肘関節を意図的に曲げることができない。それに対して、例えば、左手が急に痛んだときに反射的または本能的に曲げることはできる。
関節の屈伸は前述の単位的随意運動に含まれる。まず、単位的随意運動が意識的機能に含まれる。
単位的意識的機能と複合意識的機能
単位的随意運動のようなそれ以上小さな意識的機能に分割されない意識的機能を「単位的」意識的機能と呼べる。それに対して、複合随意運動のような複数の単位的な意識的機能から構成される意識的機能を「複合」意識的機能と呼べる。例えば、直立二足歩行は膝関節、股関節、肘関節、肩間接の屈伸などの単位的意識的機能(単位的随意運動)から構成され、複合意識的機能(複合随意運動)に含まれる。単位的随意運動は単位的意識的機能ぶ含まれ、複合随意運動は複合意識的機能に含まれる。
機能的神経細胞群、イメージ機能神経細胞路
単位的意識的機能を生じる複合神経細胞群のスターターと呼べる単位的神経細胞群をその単位的意識的機能の(単位的)「機能的神経細胞群」と呼べる。単位的随意運動の機能的神経細胞群は前頭葉にあることが確かめられている。いわゆる「運動皮質」は機能的神経細胞群を構成する神経細胞の神経細胞体から成る。他の単位的意識的機能の機能的神経細胞群も前頭葉にあると考えられる。
ある単位的意識的機能の機能イメージの素材が通る神経細胞群からその機能的神経細胞群に至る神経細胞路をその単位的意識的機能の「イメージ機能神経細胞路」と呼べる。それらは後頭葉、側頭葉、頭頂葉から前頭葉に向かい、それらの軸索は大脳髄質を通ると考えられる。
機能機能神経細胞路
単位的意識的機能は一つの機能イメージの素材と一本のイメージ機能神経細胞路と一個の機能的神経細胞群の興奮伝達から生じえる。それに対して、複合意識的機能はそのようには生じえない。複合意識的機能が生じるためには、(1)複合意識的機能を構成する単位的機能がすべて機能イメージとして想起され、それらのそれぞれがそれぞれのイメージ機能神経細胞路と機能的神経細胞群の興奮伝達を生じるか、(2)複合的意識的機能を構成する単位的意識的機能を生じる機能的神経細胞群の間に直接的または間接的な神経細胞路が、存在し活性化され興奮伝達し、それらの機能的神経細胞群が興奮伝達する必要がある。
複合意識的機能の能力の形成の初期の段階では主として(1)が機能する。例えば、複数の単位的な手作業から構成される複合的な手作業を習得するとき、すべての単位的な手作業を思い浮かべなければならない。(1)を何度も繰り返すうちに、(2)の神経細胞路が活性化され機能するようになる。その結果、複合意識的機能を構成するすべての単位的意識的機能が機能イメージとして想起されなくても、複合意識的機能が生じることが可能になる。例えば、前述の手作業が朝飯前になる。
さて、(2)における神経細胞路、つまり、複合意識的機能を構成する単位的意識的機能の(単位的)機能的神経細胞群の間の直接的または間接的な神経細胞路をその複合意識的機能の(複合)機能的神経細胞群と呼べる。また、それらの機能的神経細胞群とそれらの間の直接的または間接的な神経細胞路をその複合意識的機能の(複合)機能的神経細胞群と呼べる。また、その複合意識的機能の機能イメージの素材からその機能的神経細胞群への神経細胞路をその複合意識的機能の(複合)イメージ機能神経細胞路と呼べる。結局、複合意識的機能はその機能イメージの素材とそのイメージ機能神経細胞路と機能的神経細胞群の興奮伝達と(X)他のいくつかの機能から生る。
結局、単位的意識的機能と複合意識的機能を意識的機能と呼べ、単位的イメージ機能神経細胞路と複合イメージ神経細胞路をイメージ機能神経細胞路と呼べ、単位的機能的神経細胞群と複合機能的神経細胞群を機能的神経細胞群と呼べる。
機能イメージの後天的生成とイメージ機能神経細胞路と機能機能神経細胞路の後天的活性化
イメージの素材は後天的に生成し記銘保持され更新される。機能イメージの素材もそうである。第一に、他人の意識的機能が感覚され知覚され、それらのイメージの素材が生成し記銘保持され更新される。例えば、親の歩行を見るとき、乳児の神経系の中で直立二足歩行という複合随意運動のイメージの素材が生成し記銘保持され更新される。それが模倣の過程の最初の部分である。第二に、自己の意識的機能は他人の機能より確実に感覚され知覚され、イメージとして生成し記銘保持され更新される。それが試行錯誤の過程の最初の部分である。例えば、他人がやるのを見ているだけで自分でやらないなら、どんな技術も習得できない。それらの二つの過程によって機能イメージが生成し記銘保持され更新され想起されえる。
さらに、ある意識的機能が試行錯誤しながらも反復的に生じるときに、そのイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持され、それらのイメージの素材からその意識的機能を生じる機能的神経細胞群に至るイメージ機能神経細胞路が時間的近さに基づいて後天的に活性化される。例えば、乳児が繰り返し親の直立二足歩行を見ながら立って歩こうとするとき、直立二足歩行のイメージが生成しまたは更新され記銘され保持され想起されるともに、それらのイメージの素材から直立二足歩行を構成する四肢の単位的随意運動を生じる前頭葉の神経細胞群に至るイメージ機能神経細胞路が活性化される。
複合意識的機能の能力の形成
さらに複合意識的機能が生じるためには、機能イメージの素材が生成し、イメージ機能神経細胞路が活性化されるだけでなく、機能機能神経細胞路が活性化される必要がある。
複合意識的機能においてイメージ機能神経細胞路と機能機能神経細胞路を区別すると次のことが分かる。イメージ機能神経細胞路はどの意識的機能を生じるかに係わる。それに対して、機能機能神経細胞路は複合意識的機能を構成する単位的意識的機能を協調させること、つまり、複合意識的機能が上手か下手か、つまり、それらの能力に係る。
最初は複合意識的機能を構成することになる単位的意識的機能の機能イメージが別個に想起され、それらのイメージ機能神経細胞路が別個に興奮伝達し、それらの単位的機能細胞群が別個に興奮伝達し、それらの単位的意識的機能が別個に生じ、複合意識的機能の初歩のようなものを構成する。そのような初歩はぎこちない。模倣と試行錯誤によって、それらが繰り返されるうちに、複合意識的機能を構成する単位的意識的機能を生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化され、複合意識的機能の能力が形成される。例えば、右腕前、左腕後、右脚後、左脚前…などを生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化され、直立二足歩行の能力が形成される。その能力の形成とともに、複合意識的機能を構成する単位的意識的機能が協調して生じるようになり、複合的意識的機能が円滑に生じるようになる。
そのように特に機能機能神経細胞路は後天的に活性化される。だから、複合意識的機能の能力は(主として)後天的に形成され、複合意識的機能は後天的機能である。
特殊な意識的機能
意識的機能は通常、(1)想起される機能イメージの素材と(2)イメージ機能神経細胞路の興奮伝達と(3)(複合意識的機能においては機能機能神経細胞路を含む)機能的神経細胞群の興奮伝達と、(X)他のいくつかの機能から生じる。だが、(1)(2)(X)を含まない本能的機能としていくつかの意識的機能が生じることがある。例えば、大人が乳を吸うことは(1)(2)(3)(X)から生じえ、それは明らかな意識的機能である。それに対して、新生児が乳を吸うことは、(1)(2)(X)を含まない本能的機能として生じる。ところで、腱反射などの反射は常に(1)(2)(3)(X)なしで生じ、明らかに意識的機能ではない。模倣された反射は意識的機能だが、模倣された反射は本物の反射ではない。
少なくとも人間を含む高等な哺乳類において意識的機能がある。それらにおいて、新生児の生存にとって不可欠な、不快の感覚を減じ情動を満たすための単位的随意運動と四本足で立つ歩く、乳を吸う、鳴く…などの複合随意運動は、新生児または乳児に関する限りで、(1)(2)(X)を含まない本能的機能として生じる。だが、それ以降はそれらも(1)(2)(3)(X)だけから生じえ、それらが意識的機能であることに変わりはない。それらを「原初先天的(または本能的)意識的機能」と呼べる。それに対して、生涯を通じて(1)(2)(3)(X)だけから生じえる意識的機能を「純粋後天的意識的機能」と呼べる。人間においては、乳首を吸う、泣くは前者に含まれ、直立二足歩行と言葉を話すは後者に含まれる。
随意運動の能力の形成
随意運動は意識的機能に含まれ、単位的随意運動は単位的意識的機能に含まれ、複合随意運動は複合意識的機能に含まれる。以下の説明は随意運動が説明された節のものと後天的形成が説明された節のものと重なる。
前述のとおり、横紋筋の収縮力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。単位的随意運動の主要構成要素は横紋筋の収縮であり、その能力の主要構成要素は横紋筋の収縮力である。だから、単位的随意運動の能力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。
前述の乳を吸う、泣くのような原初先天的意識的機能の能力について、新生児のそれらは主として先天的に形成される。
原初的先天的複合随意運動を除く複合随意運動について。それらは特に後天的に活性化される機能機能神経細胞を含み、それらの能力は主として後天的に形成され、それらは後天的機能に含まれる。繰り返すが、直立二足歩行の能力の形成の例を挙げる。人間の乳児の中で、親などの他人の直立二足歩行が知覚され、そのイメージの素材が生成し記銘保持される。それらのイメージの素材が想起され、乳児は直立二足歩行しようとする。それが模倣の過程である。乳児は何度も失敗しつつ何度もしようとする。それが試行錯誤の過程である。それらが繰り返されるうちに、直立二足歩行を構成する、膝関節、股関節、肘関節、肩関節…などの屈伸という単位的随意運動を生じる機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化される。それらを何度も繰り返すうちに基本的な直立二足歩行の能力が形成される。さらに、成長し、様々な大人やテレビや映画の俳優やモデルやスポーツ選手の歩き方を見て、それらを模倣し試行錯誤するうちに、優雅に歩く、威厳をもって歩く、軍隊調に歩く、こそこそ歩く、気ままに歩く、ともかく早く歩く、ともかく長く歩く…などの様々な方法で歩く能力が形成される。
総合機能を含む他の複合意識的機能とそれらの能力については自我を説明した後で説明する。
自我
衝動
『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、感覚、記憶を直接的に生じる広義の感覚器の感覚細胞群、広義の感覚神経の神経細胞群、それぞれの記憶の神経細胞群はかなり整然としている。また、その著作で説明されたイメージイメージ神経細胞路、この著作で説明したイメージ情動神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能機能細胞路は、それらの感覚と記憶を直接的に生じる神経細胞群ほど整然としていないが、以下のものより整然としている。
情動はすべて、何らかの快不快の感覚を含み、神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な機能を生じる。例えば、皮膚の痛さは動悸、息苦しさ、発汗を生じる。
さらに、いくつかの情動は、感覚と記憶を生じる神経細胞群または神経細胞路の興奮伝達とは異なる、中枢神経系で発散し大脳にも向かい、大脳の少なくとも周辺に達する神経細胞群の興奮伝達を生じる。それらは、感覚や記憶と異なる方法で大脳のいくつかの機能に影響を及ぼす。そのような神経細胞群の興奮伝達を「衝動」と呼べる。衝動は大脳の理性的な機能を混乱させることがある。例えば、怒り恐怖などの激しい感情が思考を混乱させることがある。
一時に複数の情動が生じえる。例えば、皮膚の痛さとそれが持続または増強することへの不安は同時に生じえる。また、あることに対する期待と不安でさえも同時に生じえる。だから、一時に複数の情動によって一時に複数の衝動が生起する、つまり、生じかけることがある。だが、一時に多数の衝動が生起しても、一つの個体の一つの神経系の中で、衝動は一対の大脳に向けて発散し、最も早く持続的に高密度で広く中心に近く興奮し伝達する衝動が他を立ち消えさすので、一時に限ららた数の衝動が大脳の少なくとも周辺に達する。つまり、生起した衝動のうち限られた数の衝動が(完全に)生じる。衝動が早く持続的に高密度で広く中心に近く興奮し伝達することを衝動が強いことと呼べる。そのように定義すると、一時に多数の衝動が生起したときは最も強い限られた数のものが大脳の少なくとも周辺に達し(完全に)生じると言える。だから、衝動とそれらが通る共通の行程は限定機能であり、それぞれの衝動は被限定機能である。
機能的衝動
想起された機能イメージの(素材の)いくつかはイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、自律感覚を生じる。さらにそれらの自律感覚のいくつかは衝動を生じる。そのように想起された機能イメージから間接的に生じる衝動を差し当たり「機能的衝動」と呼べる。そのように意識的機能のイメージの素材である機能イメージから生じる機能的衝動は、その意識的機能を生じるいわゆる「意欲」となりえる。
感情と欲求と複合的情動はなんらかの自律感覚を含む。それらのほとんどはなんらかの自律感覚を生じる。ほとんどの快不快の感覚と欲動はなんらかの自律感覚を生じる。だから、ほとんどの情動はなんらかの自律感覚を含むか生じる。通常、快の情動はなんらかの快の自律感覚を含むか生じ、不快の情動はなんらかの不快の自律感覚を含むか生じる。また、不快の情動が生じていてもそれらが減退するとき、快の自律感覚が生じることがある。情動が自律感覚を含むか生じることをそれらが自律感覚を生じることと呼べる。
さて、強く持続的にまたは反復的に、ある意識的機能が生じ、それが快の情動を生じまたは不快の情動を減退させ快の自律感覚を生じたとき、その意識的機能の機能イメージが生成し記銘保持され更新され、それらからそれらの快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化され、それらの能力がしばらく維持される。次回にそれらの機能イメージが想起されたとき、それらがそれらの活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それらの快の自律感覚を生じ、機能的衝動を生じえる。そのように、過去に意識的機能が快の情動を生じるか不快の情動を減退させ、現在に快の自律感覚が生じたときだけ、機能的衝動が生じえる。そのように、自律感覚と機能的衝動は、過去の快不快に照らし合わせて、未来に快を確保し不快を予防する有力な機能である。
限定機能
一般に限定機能、被限定機能…などを以下のように定義できる。
少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体のそれぞれの中で、次のような属性(1)(2)(3)(4)をもつ機能の集合(F = (f1,f2,…))がいくつかある。
(1)Fは共通の行程(P)を経る。
(2)ある状況(S)とある時間(LT)の中で、Fは生起し生じる可能性をもち、
(2-1)数(N)個以下のFが生起した場合(C1)は、それらのすべてがそれらの単純に生じる傾向(ST)によって生じ、
(2-2)N個を超えるFが生起した場合(C2)は、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)の中で、生起したFのうち、他と競合しつつ生じる傾向(CT)が最も大きいN個のFが生じる。
(3)ただし、Nはある内的条件によって変動する。
(4)上記のうち、生じる傾向(ST,CT)には同種同年齢の中で個体差があり、他には個体差はほとんどない。
これらのうち、機能の集合(F)とFが経るFを限定する行程(LP)を含む共通の行程(P)を状況(S)における個体の「限定機能」と呼べ、集合(F=(f1, f2,…))を限定機能に属する「被限定機能」と呼べ、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)を限定機能または被限定機能の「限定行程」と呼べ、Fが限定される時間(LT)を限定機能の「限定時間」と呼べ、場合(C1)における被限定機能の生じる傾向(ST)を被限定機能の「単純な(生じる)傾向」と呼べ、C2におけるの被限定機能の生じる傾向(CT)を被限定機能の「(競合の中で生じる)傾向」と呼べる。
だが、C1における傾向(ST)は基本的なものであり、C2における傾向(CT)は必ずSTを含む。少量のCTをもつものは必ず十分なSTをもつ。また、通常、N個を超える被限定機能が生起し、N個の被限定機能が生じる。だから一般に、C2における競合の中で生じる傾向(CT)を被限定機能の(生じる)傾向と呼べる。実質的に、限られた数(N)を超える被限定機能が生起し、最も大きな傾向をもつN個の被限定機能が生じる。そのことが『感覚とイメージの想起』で説明されたイメージの想起にとっても、この著作で説明される自我にとっても最も重要なことである。
『感覚とイメージの想起』で説明された通り、個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群から再生へ向かう神経細胞群は収束する。また、一時に、多数のイメージの素材が生起するが、収束する神経細胞路で最も早く持続的に高密度で広く中心近くで興奮し伝達する一定数(N)以下のイメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起される。だから、機能イメージの想起を含むイメージの想起は限定機能であり、機能イメージの素材を含む複合イメージの素材は被限定機能である。もう少し詳しく言うと、それぞれの種類の想起は「単位的」限定機能である。複合イメージはいくつかの種類の個々のイメージから構成される。だらか、複合イメージの想起はいくつかの種類の単位的限定機能から構成される「複合」限定機能である。それに対して、以下はそうではない。
前述のとおり、機能的衝動は大脳に向けて発散するので、最も早く持続的に高密度で広く中心近くで興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて一対の大脳の少なくとも周辺に達する。つまり、最も強い(N)以下の機能的衝動が大脳の少なくとも周辺に達する。だから、機能的衝動とそれらが通る共通の行程は限定機能であり、それぞれの機能的衝動は被限定機能である。
自我の状況
状況の中で意識的機能が生じるのだが、状況と意識的機能を仲介するものが存在し機能する。その仲介するものが自我と呼ばれるにふさわしい。その仲介するものを「自我」と呼べる。端的に言って、自我は状況の中で意識的機能を生じる。自我は状況と意識的機能の仲介をする。比喩的に言って、状況は入力であり意識的機能は出力であり、自我はコンピューターである。自我の状況はなんらかの意識的機能が生じる必要があるような状況である。例えば、対人機能を生じなければならないような状況、より具体的には誰かがドアをノックしているあるいは電話が鳴っていることが自我の状況である。居留守を使うとしてもそれは対人機能であり、意識的機能である。
前述のとおり、心的機能の状況は外的状況と内的状況に区別される。自我の状況もそうである。上の例のドアのノックや電話が鳴ることは外的状況である。外的状況は、個体の外にあり、現在のものであり、感覚され知覚され認識され、その認識が自我の始まりとなる。
それに対して、自我の内的状況は個体の中にあり、イメージとして想起され認識されえる現在または過去または未来または現実または非現実のものまたは現在の情動であり、それらの認識が自我の始まりとなる。例えば、明日の仕事が想起される、つまり、予期されるから、自我は準備をしようとする。これは自我が想起されるイメージという現在の内的状況に直接的に、明日の仕事という未来の外的状況に間接的に対応することと見なせる。また、過去の恥ずかしい行為が想起される、つまり、回想されるから、自我はその行為のイメージを後述するようにして回避しようとする。これは自我が想起されるイメージという内的状況に直接的に、過去の外的状況と自己に間接的に対応することと見なせる。そのようにして、自我は現在に直接的に対応するだけでなく未来と過去と自己に間接的に対応する。
また、情動も認識され自我の内的状況になりえる。例えば、口渇があるとき、認識され、自我は水を飲もうとする。また、不安や恐怖があるとき、認識され、自我はその対象を回避しようとする。
自我
自我の発端において、いくつかの意識的機能が生じる必要がある状況が認識され、そのような意識的機能の機能イメージが想起される。簡単に言って、状況に対応するいくつかの方法が想起され提案される。例えば、誰かがドアをノックするという状況が認識され、居留守を使う、誰か確認してドアを開ける、ドアを開けて誰か確認する…などの機能イメージが想起される。
想起される機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮伝達だけから機能的神経細胞群が興奮し伝達し意識的機能が生じることも考えられる。つまり、
(1)理性系:
状況の認識→機能イメージの想起→想起される機能イメージの素材→イメージ機能神経細胞路の興奮伝達
だけが、機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ意識的機能を生じることが考えられる。(1)は、情動や衝動を含まず、「理性系」と呼べる。そのような理性系だけが意識的機能を生じるほうが情動だけまたは理性系と情動の両方が意識的機能を生じるより合理的で効率的であるように見える。
だが、理性系は弱すぎて、それだけで意識的機能を生じることができない。理性系が意識的機能を生じるには情動と機能的衝動の支持を必要とする。それは日常で、いい考えが浮かんでもやる気がなければ実行できないという体験からしばしば感じられる。
何より、通常、一秒の時間の内にも複数の機能イメージが想起され提案される。それらの複数の提案から、どれを採用するかを決定するものは何なのか。
個体と集団と種と遺伝子が生存するためには、過去に意識的機能を生じてみて快の情動を生じたか、不快の情動を生じなかったか、不快の情動を減退させたかを参照し、どれを採用するか決定することが最適である。
だから、前述の(1)理性系と以下の(2)「情動系」の両方が機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ、意識的機能を生じる。
(2)情動系:
(想起されたばかりの機能イメージの素材→)イメージ情動神経細胞路の興奮伝達→快の自律感覚→機能的衝動
(1)理性系だけでは、イメージ機能神経細胞路の中のどこかのシナプス(Y)、または、イメージ情動神経細胞路と機能的神経細胞群の間のシナプス(Z)で興奮伝達が立ち消える。(2)情動系の機能的衝動が、YまたはZのシナプス後細胞を促進して、つまり、細胞内の電位を変化させ閾値超えを生じやすくして、YまたはZで興奮伝達が通るようにする。機能的衝動は乱雑でそれらだけで精巧な機能を生じることはできないが、精巧な機能を生じる神経細胞群や細胞路の興奮伝達を促進することはできる。そのようにして、(1)理性系と(2)情動系の両方が機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ意識的機能を生じる。ここで、機能的衝動を、機能イメージから生じえるだけでなく、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進しうる衝動と定義し直せる。
情動系のうち、イメージ情動神経細胞路の興奮伝達は感覚されず、衝動は感覚されにくいが、快の自律感覚は胸のワクワクする感じ、やる気、動機、期待…などとして感覚される。そこで、情動系を「動機(motivation)」とも呼べる。
比喩的に言って、(1)理性系がいくつかの方法、つまり、「いかにするか」を提案し、(2)情動系がどれを採用するかを決定する。(1)の提案から不快が生じれば(2)が却下し、快が生じれば採用する。その快か不快かは個体の経験に基づく。過去に意識的機能が生じて、快の情動が生じたときまたは不快の情動が減退し、快の自律感覚を生じ、それらが繰り返されたとき、その意識的機能の機能イメージからその自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次にその意識的機能の機能イメージが想起されたとき、その活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮伝達し、その快の自律感覚が生じ、強い機能的衝動を生じ、機能的衝動が理性系を促進して意識的機能が生じる。それは個体の経験と快不快に照らし合わせる堅実な方法と言える。簡単に言って、過去に快を生じたものは現在にも快を生じそうである。
そもそも、理性系は中立的であり、それだけでは(1)何が良いか悪いかも(2)何が快か不快かも判断することができない。(1)は思考が決定することができ、感覚、想起、知覚、連想、理性系、情動系は決定することができない。(2)は情動系だけが決定することができる。
前述のとおり、状況と意識的機能を仲介するものを自我と呼べる。今、その仲介するものは(1)理性系と(2)情動系であることが分かる。状況と意識的機能の仲介者としての(1)理性系と(2)情動系を状況の中で意識的機能を生じようとする「自我」と呼べる。より詳細には、一定の状況が認識され、いくつかの機能イメージの素材が生起し、それらのうち限られた数(N1)以下が想起され、それらのいくつかがイメージ機能神経細胞路の興奮伝達を生じる。それと同時に、それらの機能イメージの素材のいくつかがイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それらのいくつかがいくつかの快の自律感覚を生じ、それらのいくつかがいくつかの機能的衝動を生じる。さらに、それらのうち限られた数(N2)以下の最も強い機能的衝動が大脳の少なくとも周辺に達し、それらの最も強い機能的衝動を生じた機能イメージの素材が生じたイメージ情動神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進し、機能的細胞群が興奮伝達する。そして結局、それらの最も強い機能的衝動を生じた機能イメージの素材が表す意識的機能が生じる。そのときの、状況の認識と機能イメージの素材の生起と想起と想起された機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮伝達とイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と快不快の自律感覚と機能的衝動と最も強い機能的衝動によるイメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達の促進をその状況の中でそれらの意識的機能を生じようとする「自我」と呼べる。
そのような自我がわたしたちが日常で「わたし」と呼んでいるものの実体である。つまり、私たちは意識的機能を生じえるものを「わたし」と呼んでいる。それに対して、自律機能や後述する自発的純粋心的機能を生じるものをわたしとは呼ばず、「わたしの体」とか「わたしの心」と呼んでいる。例えば、心臓の拍動と言う自律機能において不整脈が生じたとして、「わたしの体の障害」とわたしたちは言う。また、うつ病になって自発的純粋心的機能としての感情と欲求が全般的に低調になったとすれば、「わたしの心の障害」と言う。それに対して、意識的機能である盗みをして自白するとすれば、「私の体や心がやりました」ではなく「わたしがやりました」と言う。だから、自我を「わたし」、わたしたちのそれぞれ、人間、意識的機能をしようとすること…などとも呼べる。
機能イメージと機能的衝動の再定義
機能イメージと機能的衝動を以下のように定義し直したほうがよいだろう。イメージ機能神経細胞路の興奮伝達とイメージ情動神経細胞路の興奮伝達の両方を生じえるイメージの素材を機能的イメージ(の素材)と定義し直せる。また、機能的衝動を機能イメージの素材から生じえ、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進しうる衝動と定義し直せる。
また、上のように自我を定義した後では、自我から直接的に生じえる機能を意識的機能と呼べる。
限定自我と被限定自我
前節で説明された自我は限定機能である。一般に限定機能、被限定機能…などを以下のように定義できる。
少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体のそれぞれの中で、次のような属性をもつ機能の集合(F = (f1,f2,…))がいくつかある。
(1)Fは共通の行程(P)を経る。
(2)ある状況(S)とある時間(LT)の中で、
数(N)個以下のFが生起する場合(C1)は、それらのすべてがそれらの単純に生じる傾向(ST)によって生じ、N個を超えるFが生起した場合(C2)は、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)の中で、生起したFのうち、他と競合しつつ生じる傾向(CT)が最も大きいN個のFが生じる。
(3)ただし、Nはある内的条件によって変動する。
(4)上記のうち、生じる傾向(ST,CT)には同種同年齢の中で個体差があり、他には個体差はほとんどない。
これらのうち、機能の集合(F)とFが経るFを限定する行程(LP)を含む共通の行程(P)を状況(S)における個体の「限定機能」と呼べ、集合(F=(f1, f2,…))を限定機能に属する「被限定機能」と呼べ、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)を限定機能または被限定機能の「限定行程」と呼べ、Fが限定される時間(LT)を限定機能の「限定時間」と呼べ、場合(C1)における被限定機能の生じる傾向(ST)を被限定機能の「単純な(生じる)傾向」と呼べ、C2におけるの被限定機能の生じる傾向(CT)を被限定機能の「(競合の中で生じる)傾向」と呼べる。
だが、C1における傾向(ST)は基本的なものであり、C2における傾向(CT)は必ずSTを含む。少量のCTをもつものは必ず十分なSTをもつ。また、通常、N個を超える被限定機能が生起し、N個の被限定機能が生じる。だから一般に、C2における競合の中で生じる傾向(CT)を被限定機能の(生じる)傾向と呼べる。実質的に、限られた数を超える被限定自我が生起し、最も大きな傾向をもつ限られた数の被限定機能が生じると言える。
詳しく調べてみよう。
[被限定自我、共通の行程、限定行程、限定自我]
ある意識的機能を生じえる
(le1)理性系における機能イメージの素材→イメージ機能神経細胞路の興奮伝達と
(le2)情動系におけるイメージ情動神経細胞路の興奮伝達→自律感覚→機能的衝動はそれぞれ、
(cp1)理性系において再生に向けて収束する記憶の神経細胞群→イメージ機能神経細胞路と、
(cp2)情動系においてイメージ情動神経細胞路→自律感覚を生じる神経細胞群→衝動が通る神経細胞群を
通る。
cp1の中には再生に向けて収束する記憶の神経細胞群(lp1)がある。収束する記憶の神経細胞群の中では最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮し伝達する複合イメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起される。だから、一度に多数の機能イメージが生起しても限られた数(N1)以下の機能イメージが想起される。cp2の中には衝動が通る神経細胞群(lp2)がある。衝動は大脳に向けて発散し、最も強い衝動が少なくとも大脳の周辺に達する。だから、N1以下の衝動が生起しえるが、一度に限られた数(N2)以下の衝動が少なくとも大脳の周辺に達し、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群を促進し、N2以下の意識的機能を生じる。
それらのことからle1とle2は被限定機能であり、それを「被限定自我」と呼べる。また、cp1とcp2は被限定自我が通り共通の行程である。また、lp1とlp2は被限定自我をN2以下に限定する限定行程である。また、ある状況の中で生起しうる被限定自我の集合とその限定行程を含む共通の行程は限定機能であり、それをその状況の中での「限定自我」と呼べる。
そのように限定自我の中には二重の限定行程lp1とlp2があり、被限定自我は二重の限定を受ける。だが、非限定自我は最終的にN2以下に限定されるのであり、lp2のほうが重要である。
[自我の状況]
自我の状況は前の節の一つで概略的に説明された。ここでは限定的に説明する。
状況は無際限に広がりえる。例えば、対人不安は自我によって認識され、自我が対人回避という意識的機能を生じえ、自我の直接的な内的状況になりえる。そのような自我の状況はその不安から現在の人間関係から過去の人間関係、乳児期からの対人不安の傾向の形成過程…などへと広がりえる。傾向または能力の形成こそが最も重要なことなのだが、それを状況という言葉でとらえないほうがよい。それは「傾向または能力の形成」という直接的な言葉で指したほうがよい。そこで、自我の状況を現在に認識されているものに限定することにする。そのように定義すると前の例では自我の状況は現在の対人不安と現在の人間関係だけになる。自我の傾向の形成こそが最大の問題なのだが、それはそれらの言葉で直接的に指すことにする。
[自我における限定時間]
数秒の時間である。『感覚とイメージの想起』で説明したとおり、イメージの想起の限定時間はゼロコンマ数秒の時間だった。それに対して、自我は理性系より時間がかかる情動系を含むから、限定時間は単純な想起より長くなる。だが、十秒以上の時間、どんな被限定自我も生じないように見えることがある。例えば、自我が長い時間考えこんでいるときそう見えることがある。だが、そう見えるときでも、自我はその大きな思考の中でより小さな思考という意識的機能を次々と生じている。
[それ以下の被限定自我が生じる数(N)]
いくつかの機能イメージの素材が生起し、lp1の中でそれらのうち限られた数(N1)以下が想起され、それらのいくつかがイメージ機能神経細胞路の興奮伝達を生じる。それとともに想起されたばかりの機能イメージの素材のいくつかが活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それらのいくつかがいくつかの快の自律感覚を生じ、それらのいくつかがいくつかの機能的衝動を生じる。そして、lp2の中で別の数(N2)以下の最も強い機能的衝動が大脳の少なくとも周辺に達し、イメージ情動神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進する。結局、N2以下の被限定自我が生じる。そのように数(N)はN2であり、N2はN1以下である。後述するとおり、数(N)は1になることがある。
[Nが変動する内的条件]
限られた数(N)はある内的条件によって変動する。まず、機能イメージの想起について、ある機能イメージが強く想起されるときは、他の機能イメージは弱く想起されるまたは生起しても想起されず、N1は小さくなる。次に機能的衝動について、強い快の自律感覚が生じ強い機能的衝動を生じるとき、N2は小さくなる。全体として、強い自我が生じるとき、Nは小さくなり、1になることがある。例えば、非常に危険な状況から逃げようとする被限定自我が生じるとき、他の被限定自我は生じず、Nは1になる。だが、ときにではなく通常、1ではないのだろうか。だが、後述する慣性的自我があるために、通常は複数である。簡単に言って、自我は他のことをしながらあることをするというような器用なことができる。例えば、自我は荷物を持って駅まで歩きながら今日の予定を考えるというようなことができる。そのようなとき、歩くことと荷物をもつことは慣性的に生じている。だが、慣性的自我を自我と認めないなら、Nは1である。だから、Nは1であるとしても間違いではない。例えば、『悪循環に陥る傾向への直面』では、慣性的自我は問題にならず、Nは1である。
そのように限定自我と被限定自我は区別される。端的に言って、限定自我は被限定自我を限定する。だが、限定自我と被限定自我を逐次、区別しそれらの言葉を用いていたのでは文章が煩雑になる。だから、文脈からどちらを意味するか明らかなときは、「限定」「被限定」という言葉を省略することにする。
限定理性系と被限定理性系、限定情動系と被限定情動系
限定自我と被限定自我が区別されるに伴って、理性系は限定理性系と被限定理性系に区別され、情動系は限定情動系と被限定情動系に区別される。それらの区別によって、理性系と情動系についての比喩が以下のようにより正確になる。
固体の限定自我の中で、限定理性系が状況の中で可能で必要な様々な意識的機能を機能イメージとして提案し、限定情動系がそれらのうち最も快のものを採用し実行する。
繰り返すが、それらにおける「限定」「被限定」という言葉は通常は省略される。
自我と連想、思考
連想は以下のようにして被限定自我に含まれることがある。被限定自我において、機能イメージの想起が長引いて、連想となることがよくある。その連想において元の機能イメージより詳細で具体的な機能イメージが想起され続く過程を生じたとすれば、それは元の被限定自我が長引き詳細化具体化されたことであり、その連想は長引いた被限定自我に含まれる。例えば、元の概略的な回避する機能イメージからより具体的な逃げる、隠れる…などの機能イメージが連想され続く過程を生じたとすれば、それである。それに対して、連想の中で、そのような詳細化具体化された機能イメージが想起されず、元の概略的な機能イメージが他の概略的な機能イメージに取って替わられたとすれば、それは元の被限定自我が生起したが停止し、他の被限定自我が生起していることである。例えば、直面するまたは待機する機能イメージが元の回避する機能イメージに取って替わったとすれば、それである。
思考とより小さな被限定自我が以下のようにしてより大きな被限定自我に含まれることはよくある。思考は意識的機能であり、被限定自我は思考を開始することができる。より大きな被限定自我の中で、機能イメージが想起または連想されているときにより小さな自我がその機能イメージについての思考を開始することはよくある。その思考の中で、元の機能イメージより詳細で具体的な機能イメージが想起され続く過程を生じたとすれば、それはより大きな被限定自我が長引き具体化詳細化されたことであり、その思考とそれを開始したより小さな被限定自我はより大きな被限定自我に含まれる。それに対して、その思考の中で、そのような詳細化具体化された機能イメージが想起されず、元の概略的な機能イメージが他の概略的な機能イメージに取って替わられたとすれば、それはより大きな被限定自我が生起したが停止し、他の非限定自我が生起していることである。例えば、回避する機能イメージについて考えているときに、自己の回避する傾向が想起されるとすれば、それである。ついで、自我は自己の回避する傾向に直面するかもしれない。
そのように、被限定自我が連想と思考を含むだけでなく、より大きな自我がより小さな自我を含むことはよくある。そこには自我の重層構造がある。そのような重層構造の詳細は後述する。
自我と情動
まず(1)、前述のとおり、情動は認識され自我の内的状況になりえる。情動の全体または部分が認識され、直接または連想または思考によって間接的にある被限定自我の機能イメージが想起され、その被限定自我が生起することがある。例えば、空腹が認識され、自我は食物をえる方法を考える。また、対人不安が認識され、自我は対人関係をどう回避するか考える。また、対人欲求が認識され、自我はどうやって対人関係に入って行くか考える。
第二(2)に、漠然とした状況の中で情動が生じ持続している間に、被限定自我がその中で具体的な状況を認識し生起することがある。例えば、漠然とした対人関係の中で対人不安が生じ持続している間に、被限定自我がその中で具体的な対人関係を認識しそれを回避しようとすることがある。
第三(3)に、被限定自我が具体的な状況を認識し生起し持続している間に、それを含む漠然とした状況の中で情動が生じることがある。例えば、被限定自我が具体的な対人関係を認識し生起し持続する間に、それを含む漠然とした対人関係の中で対人欲求が生じることがある。
上記の(1)(2)(3)のいずれの場合にも、情動が自我の機能的衝動を促進または抑制することがある。例えば、上の(3)の例では、対人欲求が対人機能を生じようとする自我を促進する。
だが、機能的衝動を促進または抑制しうるのは中等度の情動に限る。精神的情動にせよ身体的情動にせよ、強烈な情動は、機能的衝動と異なる乱雑な衝動を生じ、自我の理性系も情動系もかき乱し、自我は何もできないか不可解な意識的機能を生じることがある。例えば、突然、激痛を受けたときは、私たちは叫ぶことしかできない。そのような叫びは自我から生じる意識的機能ではなく本能的機能かもしれない。
一つの状況から多数の被限定自我が生起すること
通常は、一つの状況の中で多数の機能イメージの素材が生起するが、それらのうち限られたN1個が想起される。さらに、通常は、複数の機能イメージが想起されるが、さらに限られたN2個の機能的衝動と被限定自我が生じる。比喩的に言うと、理性系が状況の中で可能で必要な多数の意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がそれらのうちの少数を快不快をもって採択し、他を却下する。
人間社会の中で生きる個人の中では、成分法、慣習法、慣習、倫理、道徳、常識…などに従う意識的機能の機能イメージが想起され、ある程度の快の自律感覚を生じることが多い。それはそのような意識的機能を生じることがある程度の安心感を生じ、少なくとも厳しい非難、報復、制裁…などを招かなかったからである。同時に、それらに反する機能イメージも想起され、わたしたちを引き付ける。だが、それらに反することは上記を招き、不安が生じる。だが、そのような機能イメージが生起しまたは想起され、そのような機能イメージを含む被限定自我が、生じることは稀だが、生起することに変わりはない。そのように、被限定自我の生起の段階で既にいわゆる葛藤があるように見える。だが、それは葛藤などという劇的なものではなく、日常である。
また、自我の生起の段階で既に直面と回避と待機が錯綜する。例えば、ある限定自我が対人不安という内的状況と困難な対人関係という外的状況にあるとき、以下のような被限定自我が生じえる。対人不安が認識され、(1)対人回避の機能イメージが想起される。だが、対人機能を生じる必要性が認識され、不快の自律感覚を生じ、強い機能的衝動を生じない。それから、対人直面の機能イメージが想起される(2)。だが、それは対人不安を増大させ、強い機能的衝動を生じない。結局、(3)人間関係の中に入りながら直面していない中途半端な対人機能の機能イメージが想起され、それが安心感を生じ、強い機能的衝動を生じ、そのような対人機能が生じる。これらは二三秒の間に生じる。
たが、(1)(2)(3)のそれぞれについても、例えば以下のような多数の具体的で詳細な被限定自我が生起する。
例えば、
(1-1)職場や学校に行かない
(1-2)職場や学校に行くが、対人関係を避ける
(1-3)病気の振りをして休む
(2-1)不安を抱えつつ職場や学校に行って対人関係に入る
(2-2)人間関係が異常と思われる場合は改善する
(3-1)軽く振る舞う
(3-2)他人が近寄り難い雰囲気を作る
だが、それらも一例に過ぎず、実際は一時に通常、さらに詳細な被限定自我が生起する。
段階を踏む自我
例えば、自我が恋人に会おうとしても、すぐに会えるわけではない。自我はシャワーを浴び、化粧をして服を着てドアに鍵を掛ける必要がある。自我は電車に乗ろうとするが、そうするためには駅まで歩かなければならない。歩いていると信号で立ち止まるまたは無視しなければならない。この場合、信号を無視するには信号で止まるより自我がもっと強く働く必要がある。駅に着いたら、切符を買う必要があり、そのためには自我が販売機まで行き、ポケットやバッグから財布を取り出し、カネまたはカードを取り、それらを販売機に入れ、お釣りを取り、改札口へ向かわなければならない。それらはすべて意識的機能であり、多数の自我が働く必要がある。そのように、彼または彼女に会うまで、また、電車に乗るまでにも、多数の自我が機能している。そのように、意識的機能のほとんどは段階であり、自我は状況の中で段階を踏む必要があり、日常生活のほとんどは段階である。
被限定自我の連続性
そもそも、イメージは次々と速やかに入れ替わり立ち替わり、機能イメージについても同様である。また、それに対応して快不快の自律感覚と機能的衝動も速やかに入れ替わり立代わる。だから、被限定自我は速やかに入れ替わり立代わる。また、自我の状況もそれほど速やかではないが変化する。さらに、自我が生じた意識的機能によって状況は変化する。例えば、自我が生じた発言という意識的機能によって対人関係という状況は変化し、ときには一変する。だから、自我も次々と速やかに変化する。そのような速やかな変化は一時的で特別な状態ではなく、持続的で基本的な状態である。
前述の段階を踏む自我、後述する慣性的自我を含めて、覚醒している限り、常になんらかの自我がいれ替わりたち替わり生じており途絶えることはない。
被限定自我と意識的機能の概略
『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、意識的機能を含めてほとんどのものは次々と分岐する記憶の神経細胞を通っていくつかの群に分類される。それらの群のいくつかについて、群に属する要素がイメージとして想起されるだけでなく、群そのものもイメージとして想起される。もう少し詳しく言うと、いくつかの群が背景に想起され、それらの群に属するいくつかの特定の要素が前景に想起される。例えば、一般の人間関係が背景で想起され、職場や学校や家庭での特定の人間関係が想起される。
意識的機能の機能イメージについても、上のように分類され想起される群がある。例えば、回避することが群として背景で想起され、逃走する、隠遁する…などが機能イメージとして前景で起される。
さらに、そのような意識的機能の機能イメージの群のいくつかについて、同じ群に属する要素の素材はその同類性によって同一または類似のイメージ情動神経細胞路を活性化する。だから、そのような群に属する意識的機能の機能イメージを含む被限定自我の傾向は共に形成される。そのようにして傾向が共に形成される被限定自我の群を(被限定)自我の「概略」と呼べ、それらから生じえる意識的機能の群を意識的機能の概略と呼べる。被限定自我の傾向はそのような概略を単位として形成される。例えば、被限定自我の概略として自己顕示がある。自己顕示的傾向は主として乳幼児期前半に形成される。思春期以降に自己顕示の方法は自己を語り過ぎる、自己の欠点さえも顕示する…など多様になるが、私たちはそれらを大差ないと感じ取っている。そのように概略は心理学より日常でのほうが感じ取りやすいことがある。
そのような概略は基本的には(被限定)自我の概略であって、概略を単位として形成されるのは被限定自我の傾向である。だが、自我のものに限定されない概略はいくつかある。例えば、直面、回避、待機は、自我のものだけでなく、意識的機能、自律機能、本能的機能を含む多くの動物の多くの機能の概略である。それらの機能の能力または傾向のほとんどは個体ではなく種を単位として遺伝子によって先天的に形成される。例えば、肉食動物も天災を回避する。草食動物が肉食動物からすぐに回避することはかえって気づかれ捕まえられる危険を高めることがあり、待機はそれらの遺伝子と個体と種の生存に適した機能であることがある。人間では直面は戦いとは異なる。戦わず話し合うことが直面であることがある。また、戦うことが回避であることがある。
被限定自我の傾向は、概略を単位として形成されるだけでなく、概略を単位として減退し再形成する。そのことは『悪循環に陥る傾向への直面』において重要である。概略は単に被限定自我や意識的機能を分類するためにあるだけでない。繰り返すが、被限定自我の傾向は概略を単位として形成、減退、再形成される。だから、わたしたちは被限定自我の傾向の形成、減退、再形成を概略を単位として論じることができる。被限定自我の概略が強く持続的または反復的な苦痛を生じているとき、そのような概略の傾向をまとめて減退させることができ、そのような苦痛をまとめて減退させることができる。この点においてこそ概略は重要である。
見かけの双極性の概略
概略が極として互いに相反し傾向が一方の極から他方へ連続して形成される二極性の被限定自我の概略があるように見える。例えば、対人直面と回避は二極性の概略であるように見える。だが、対人直面と回避のそれぞれにおいて、なんらかの対人機能をすぐに生じることを対人「短絡」と呼べ、それと対人待機が二極性の概略であるようにも見える。また、何でも支配することと何にでも服従することは、二極性の概略であるようにも見える。すると、内弁慶(訳注:英語では、a lion at home and a mouse abroad (家ではライオン、外ではネズミ))の人はどうなるのか。内弁慶の何人かは外では支配することができないから内で強く支配しており、やはり何でも支配する傾向が強いとも見なせる。だが、内弁慶の何人かは支配と服従を狡猾に切り替えるという別の概略をもつとも見なせる。そのように見ていくと、明らかな二極性または多極性の概略は稀であることが分かる。
被限定自我の概略の想起
機能イメージの想起も限定機能であり、限られた数(N1)以下の機能イメージが想起される。意識的機能の概略のイメージもそうである。最初は多くの場合、N1以下の概略が想起される。例えば、直面と回避と待機という概略が同時にまたは短時間に入れ替わり立ち代わり想起される。そのすぐ後に、一つの概略が想起され続け、それから詳細で具体的な機能イメージが想起され、概略のイメージは背景に退き、具体的で詳細な機能イメージが前景に出る。例えば、回避が想起され続け、逃走する、隠れる…などの詳細で具体的な機能イメージが想起され、回避のイメージは背景に退き、逃走のイメージが前景に出る。そのような概略のイメージを機能イメージに含め、被限定自我に含めてもよいだろう。これらの著作ではそれらを機能イメージに含め被限定自我に含めることにする。
概略という言葉の使用法
日常でも心理学でも、自我と意識的機能が既に概略を単位として論じられることが多い。例えば、この著作では直面、回避、待機は多くの動物の多くの機能の概略だが、人間を含む高等な哺乳類においては重要な自我と意識的機能の概略である。また、日常では「あの人は粘着的だ」などと言われるが、粘着も自我または意識的機能の概略の一つである。また、「という概略」などの言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、特に必要でない限りそのような言葉を省略することにする。また、(被限定)自我の概略と意識的機能の概略を逐次、区別し「(被限定)自我の」「意識的機能の」という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、文脈から明らかなときはそれらを省略することにする。例えば、回避という(被限定)自我の概略という言葉は回避という言葉に簡略化される。
意識的機能の概略の中の亜群
傾向が共に形成、減退、または再形成されるのは、概略に属する被限定自我の傾向であって、概略に属する意識的機能の傾向や能力ではない。意識的機能で問題になるのは傾向ではなく能力である。さらに、意識的機能の能力は概略より小さな亜群を単位として共に形成される。例えば意識的機能の概略としての対人回避の中には、(1)まっすぐに回避する、(2)こっそり回避する、(3)浅薄な対人関係しか結ばない、(4)他人が近寄りがたい雰囲気を醸し出す…などの亜群があり、それらの能力は別個に形成される。特に(3)(4)はかなり高度な対人機能であり併存することはめったにない。
自我における機能イメージと欲求における対象イメージ
自我における機能イメージは欲求における対象イメージに似ていると思われるかもしれない。だが、そもそも、自我における機能イメージがイメージ機能神経細胞路とイメージ情動神経細胞路の両方の興奮伝達を直接的に生じえるのに対して、欲求における対象イメージはそれらを直接的に生じず間接的に生じえるだけである。
自我における機能イメージは最初から最後まで意識的機能のイメージである。それに対して、欲求の対象イメージの素材は、権力、カネ…など意識的機能が処理するものでありえる。だが、それは必ずしも欲求の対象が物質的であることを意味しない。随意運動、思考…などの意識的機能の能力や愛、永遠、自由…などの抽象的なものも欲求の対象になりえる。
自我の傾向
傾向の形成段階からの被限定自我の全体
被限定自我が生じるためには以下の段階を昇り切る必要がある。それらのうち、(1)-(3)は被限定自我の傾向の形成の段階であり、それは準備的段階とも言える。
(1)ある意識的機能が感覚され知覚され認識され、その機能イメージの素材が生成し記銘され保持され更新される。
(2)その機能イメージの素材からその意識的機能を生じる機能的細胞群に至るイメージ機能神経細胞路が活性化される。
(3)意識的機能が快の情動を生じまたは不快の情動を減じ、快の自律感覚を生じ、その機能イメージからそれらの快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。
(1)-(3)が繰り返され、以下の能力が維持される。
(a-1)複合イメージとしてのその機能イメージを構成する個々のイメージを記銘し保持する神経細胞群とそれらの間の神経細胞路
(a-2)イメージ機能神経細胞路
(a-3)イメージ情動神経細胞路
それらはいわばリハーサルであり、以下がいわば本番である。
(4)状況が認識され、その機能イメージが生起する。
(5)それが限定状況(LS1)の中で想起される。
(6)それがイメージ機能神経細胞路の興奮伝達を生じる。
(7)同時に、その想起された機能イメージの素材がイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それが快の自律感覚を生じ、それらが機能的衝動を生起させる。
(8)その機能的衝動が限定状況(LS2)の中で大脳の少なくとも周辺に達する。
(9)それがあのイメージ情動神経細胞路または機能的神経細胞群を促進する。
(1)-(9)のすべての階段を昇り切って被限定自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。
それらのうち最も重要なのは(7)であり、準備的段階まで遡ると(3)である。その理由は後述される。
被限定自我の(概略の)傾向と限定自我の傾向
前述のとおり、同じ概略に属する被限定自我の傾向は共に形成される。つまり、被限定自我の傾向は概略を単位として形成される。被限定自我の(概略の)傾向、限定自我の傾向または習性を以下のように定義できる。
ある個体の限定自我において、ある状況において生起しえる被限定自我の概略の一つに属する被限定自我の傾向の平均を、その状況におけるその個体のその被限定自我の(概略の)(絶対的)傾向と呼べる。また、同種同年齢の個体の中でのその標準偏差値を((同種同年齢における)相対的)傾向と呼べる。また、そのような傾向の行列をその状況におけるその個体の(限定)自我の(絶対的または相対的)傾向または習性と呼べる。例えば、ある限定自我の相対的傾向(または習性)は、
(自棄的傾向, 粘着的傾向, 自己顕示的傾向, ...)=(53, 64, 59, ...)
と記述される。
そのように定義すると、絶対的傾向より相対的傾向がより重要であるように見える。だが、必ずしもそうではない。どの被限定自我(の概略)が生じるかを決定するのは、個体の限定自我の中でどの被限定自我の(概略の)絶対的傾向が最も大きいかである。慣性自我を除くと、数秒の時間の中ではただ一つの被限定自我が生じる。その場合は、絶対的傾向が最も大きい被限定自我の概略に属する被限定自我が生じる。被限定自我の概略の傾向が全般的に大きいとか小さいとかは問題にならず、絶対的傾向の差が問題になる。そのことを「自我が絶対的傾向の差によって生じる」ことと呼べる。また、個体の中での被限定自我の傾向の形成または減退と限定自我の傾向(習性)の変化、つまり、再形成を調べるには絶対的傾向が適する。それに対して、同種同年齢の中での個人の個性を調べるには相対的傾向が適する。
理論的には被限定自我の(概略の)傾向は、イメージ情動神経細胞路、イメージイメージ神経細胞路…などの能力を測定することによって数値化できる。だが、生体においてそれらを測定することは不可能である。だから、それらの数値化は目に見える意識的機能の観察、測定可能な自律機能の測定、心理テスト…などに頼らざるをえないように見える。
だが、それらの測定よりは、他人と自己に対する嫌悪、倦怠、安心感、好感…などの感情のほうが意外と正確なことがある。特に粘着的傾向、自己顕示的傾向、何でも破壊する傾向、何でも支配する傾向、に対する嫌悪と倦怠は正確である。特に自己のそれらに対する嫌悪と辟易は正確である。結局、わたしたちのそれぞれにできることは自己の自我の傾向にたった一人で直面していくことだけである。
自我の傾向にほとんど性差はない
自我の傾向について、この著作の筆者の一人は、自我の傾向の標準偏差値を定義するとき、同種同年齢同「性」という言葉を使うことによって性差を加味しようとした。だが、自我の傾向に関する限りで、性差はほとんどない。
被限定自我の傾向の中では何でも支配する傾向、何でも破壊する傾向に性差があるように見える。だが、例えば、歴史上、独裁者や虐殺者のほとんどが男性であるということは、政治的軍事的権力闘争に参加する機会が専ら男性に与えられてきたということを示すだけである。仮に権力闘争の能力が男性のほうが優れているとしても、その能力を磨く機会が専ら男性に与えられてきたということを示すだけである。何より、権力闘争の能力は、意識的機能の能力であって、自我の傾向ではない。自我の傾向が意識的機能の能力を高めることはあってもその逆は稀である。
子供への欲動と欲求、性的な欲動と欲求の傾向に性差があることは確かである。だが、それは情動の傾向の差であって自我の傾向の差ではない。情動の傾向の差が自我の傾向の差を部分的にもたらすことはある。だが、それはそれらの情動に関してのみである。
そのように見ていくと、自我の傾向に関する限りで、性差はほとんどないことが分かる。後述するとおり、自我の傾向がいわゆる人格の大部分を占める。だから、いわゆる人格に性差はあまりない。だから、これらの著作が性差全般を加味することはほとんどない。
自我の傾向を決定づけるもの
被限定自我の機能イメージの素材が生成、記銘、保持、想起されなければ、その被限定自我は生じない。簡単に言って、思い浮かばない方法は実行されない。もし、被限定自我を構成するものが理性系だけなら、機能イメージの想起の傾向が被限定自我の傾向を決定づける。だが、被限定自我は被限定理性系と被限定情動系から構成され、限定自我は限定理性系と限定情動系から構成される。繰り返すが、比喩的に、個人において、限定理性系が状況の中で可能で必要な様々な意識的機能を機能イメージとして提案し、限定情動系が快不快をもってそれらのうちどれを採用し実行するかを決定する。ここでは、状況の中で一般の人間に可能で必要な意識的機能の概略のほとんどすべてが機能イメージとして想起され提案されている。例えば、成文法または慣習法に従うもの、それらに反するもの、一般的なもの、個性的なもののほとんどすべてが想起され提案されている。だから、どの被限定自我が生じるかを決定づけるのは、限定理性系の傾向ではなく、限定情動系の傾向である。自我の傾向を決定づけるのは理性系の傾向ではなく情動系の傾向である。例えば、理性系が犯罪を控えているように見える。だが、多くの個人で多くの場合、理性系において犯罪は機能イメージとして想起され、次いで情動系において不安に似た不快の自律感覚が生じ、犯罪は却下される。結局、どの被限定自我(の概略)が生じるかを決定づけるは、限定情動系の傾向である。
情動系を逆行的にたどってみる。前述のとおり、機能的衝動は被限定機能であり、最も強い機能的衝動が他を立ち消えさせて少なくとも大脳の周辺に達し、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進し意識的機能を生じる。最も強い機能的衝動を生じるものは最も強い快の自律感覚である。自我において自律感覚はイメージ情動神経細胞路の興奮伝達から生じる。だから、自我の傾向を決定づけるものは、過去にどのイメージ情動神経細胞路がどの程度活性化されたかである。さらに立ち返るなら、意識的機能がどれぐらいの頻度でどれぐらい強く快の情動を過去に生じたかである。結局、イメージ情動神経細胞路の能力である。
もう一度、自我の傾向の形成を振り返ってみる。乳幼児期から現在に至る時間の中で、個人の理性系の中で、他人と自己の意識的機能が認識されそれらの機能イメージが生成し記銘保持され更新される。それと同時に理性系において、イメージ機能神経細胞路が活性化される。また、それとともに情動系において、意識的機能が生じることによって情動が生じ快不快の自律感覚が生じ、機能イメージの素材から快不快の自律感覚に至る神経細胞路、つまり、イメージ情動神経細胞路が活性化される。それらが乳幼児期から現在に至るまで繰り返され、それらの能力が維持される。現在に状況が認識され、機能イメージが想起され、活性化されたイメージ機能神経細胞路とイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、後者が快の自律感覚を生じ、機能的衝動を生じ、最も強い機能的衝動が少なくとも大脳の周辺に達し、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進して、被限定自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。それらの中で、自我の傾向を決定づけるのはどのイメージ情動神経細胞路がどれぐらい強く活性化されたかであり、結局は過去にどの意識的機能がどのような情動をどれぐらいの頻度でどれぐらい強く生じたかである。例えば、乳幼児期に人間関係という状況の中で、幼児が対人機能を生じてみて、疎外されず楽しむことができ、それらが一日に二、三回、数か月繰り返されたとき、対人直面という被限定自我の概略の傾向が形成される。
だが、前述のとおり、粘着、自暴自棄…などの思春期以降の人間には不可解な被限定自我の概略があり、しかも不可解な概略ほど、その傾向は執拗でありなかなか減退しないように見える。それはそれらの傾向が主として思春期以前に、特に乳幼児期前半(三歳まで)に形成され、それらの傾向は一時的でわずかにせよ頻繁に苦痛を減じたからである。例えば、母親の愛情が十分なとき、人間の子供は3歳頃にその愛情に満足または辟易し母親から離れていく。母親の愛情が希薄なとき、乳幼児はいつまでも愛情を求め母親から離れず母親に付き纏うか、愛情を求めず孤立する道を選ぶ。かくして粘着的傾向または孤立的傾向が形成される。それらの傾向はなかなか減退しない。それは乳幼児期にそれらの傾向は一時的でわずかにせよ頻繁に苦痛を減じたからである。
被限定自我の枠組みの先天的形成と被限定自我の内容の後天的形成
限定自我の被限定自我を除く部分、つまり、被限定自我が通る限定行程を含む共通の行程を限定自我の「枠組み」とも呼べる。それは、記憶の神経細胞群とそれらの枝の間の神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、イメージ情動神経細胞路、自律感覚を生じる神経細胞群、機能的衝動が通る神経細胞群から構成される一連の神経細胞群であり、主として(遺伝子によって)先天的に形成される。
それに対して、限定自我に含まれる被限定自我とそれらの傾向を限定自我の「内容」とも呼べる。被限定自我が含む機能イメージは後天的に生成する。だから、被限定自我は主として後天的に生成する。被限定自我の傾向は機能イメージを構成する個々のイメージを記銘保持する神経細胞群、それの間の神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、イメージ情動神経細胞路が活性化されることによって形成される。だから、被限定自我の傾向は主として後天的に形成される。だから、自我の内容は主として後天的に形成される。
まとめると、自我の枠組みは主として(遺伝子によって)先天的に形成され、内容は主として後天的に形成される。自我の内容が主として後天的に形成されるからと言って、遺伝子と進化を軽視してよいと言うわけでは全くない。枠組みがなければ内容はない。進化は、自我をもつ動物が環境の自然な変化に適応して生存できるように、自我の内容が後天的に形成されるように自我の枠組みを形成したと言ってよい。遺伝子と進化に対してわたしたち人間の自我がどのように機能してきたかと、今後どのように機能する必要があるかは『生存と自由』と『生存と自由の詳細』で説明される。
自我の枠組みが主として先天的に形成されることは、分娩時に枠組みが完成していることを意味しない。分娩後も枠組みは遺伝子によって主として先天的に形成される。特に理性系、特に機能イメージを生成し記銘し想起する枠組みは三歳頃にようやくほぼ完成する。それに対して、情動系の枠組みは分娩時にはほぼ完成している。言い換えると、新生児にも、非理性的だが、それなりの幼い自我が存在機能している。だから、新生児または乳児は粘着、自己顕示…などの本能的機能を模倣しそれらに便乗することができ、乳児は超立二足歩行や言葉を話すという意識的機能を模倣することができるのである。
ところで、猿、犬、猫、馬…などの高等な哺乳類にもそれなりの原始的な自我の枠組みがあることは確実であり、それらも主として先天的に形成される。それらの自我の内容も、もしあるとすれば、主として後天的に形成される。
いわゆる人格
いわゆる人格の大部分は
(1)知能、つまり、記憶の枠組み
(2)知識、つまり、記憶の内容
(3)精神的情動の傾向
(4)意識的機能の能力
(5)自我の傾向
から構成される。自我の傾向(5)は人格の大部分を占め、(1)-(5)の中で最も重要なものである。一見したところ(1)-(5)のどれも負けず劣らず重要であるように見える。対人関係においては(4)の一つである対人機能力が必須であるように見える。だが、例えば、対人回避という被限定自我の概略の傾向が大きいとき、自我はほとんど対人機能という意識的機能を生じず、対人機能能力はますます未熟にとどまる。それに対して、対人回避の傾向が減退し、自我が対人機能を生じるとき、対人機能能力は再び発達し始める。また、再び対人関係においては(3)の一つである、対人不安の傾向が致命的であるように見える。だが、自我が対人不安という内的状況の中で対人機能を生じないとき、対人不安はますます強くなる。それに対して、自我が適度な対人関係の中に入り、対人機能を少しずつ生じるとき、対人不安は少しずつ減退する。また、権力闘争においては、(4)の一つである権力を獲得し振るう能力と(3)の一つである強い権力欲求の傾向が不可欠であるように見える。だが、自我の、自己顕示的傾向、何でも支配する傾向、何でも破壊する傾向が強い権力欲求を形成する。権力を獲得し振るう能力については、それらの自我の傾向と情動の傾向と比較するとあまり重要でない。
前述のとおり、自我の傾向(5)は主として後天的に形成される。人格を構成する他の要素に目を向けても、(2)知識、(3)精神的情動、(4)複合随意運動、思考、総合機能を含むほとんどの意識的機能の能力は主として後天的に形成される。だから、人格は主として後天的に形成される。
だが、人間の大人の多くは人格を遺伝子による遺伝に帰しがちである。それは何故か。
まず、人格の大部分を占める(5)と(3)とそれらの個人差は主として乳児期から思春期の間に形成される。私たちは人格の形成過程を含めて乳児期幼児期前半の出来事を覚えていない。わたしたちは覚えていないことを遺伝子に帰しがちではないだろうか。
第二に、(5)(3)は早期に形成されるほど減退または再形成することが困難である。そもそも、早期に形成されようが遅れて形成されようが、(1)-(5)の減退または再形成は困難である。わたしたちは形成または減退まらは再形成が困難なことを遺伝子に帰しがちではないだろうか。
第三に、確かに親子、兄弟の(1)(3)(5)は類似する。確かに(1)は主として遺伝子によって先天的に形成され、(1)の類似性は主として遺伝子にる遺伝によっている。だが、親子兄弟の(3)(5)が似ているのは、主として遺伝子による遺伝によるのではなく、主として分娩から三歳まで子供たちが通常、同一のほとんど変わらない親の十分または不十分な愛情と世話を受けたことによっている。
先天的または後天的障害の影響
中枢神経系の先天的障害または胎生期または分娩時の障害は、記憶、知覚、連想、思考の能力を全般的に低下させる。自然な老化はそれらに緩徐な障害をもたらし、認知症は急激な低下をもたらし、頭部外傷や脳血管障害は即座の低下をもたらす。それらが、自我や自我の傾向に影響を及ぼすとしても、主としてその理性系に影響し、自我が全般的に非理性的になることは避けられない。
それに対して、情動と自我の情動系は前述の障害の影響を受けにくい。簡単に言って、それらは頑丈である。だが、うつ病エピソードや統合失調症慢性期では情動と自我の情動系が全般的に希薄になる。だから、自我が全般的に希薄になることは避けられない。
純粋心的意識的機能と総合機能
意識的機能の再定義
自我の他の様相を説明する前にまだ説明されていない意識的機能の群を説明する。そのほうが前者が分かりやすくなると思うので。また、純粋心的意識的機能を説明した後で総合機能をもう一度、説明する。後者は前者を含むことが多いので。
前述のように自我を定義すると、意識的機能を自我から直接的に生じることが可能な機能と再定義することができる。何故なら、自我のいわば最終走者であるイメージ機能神経細胞路の興奮伝達が意識的機能のいわばスターターである機能的神経細胞群の興奮伝達を直接的に生じるからである。自我と意識的機能の直接性に対して、他の機能を自我が生じるまたは変えることができるとしても、間接的にできるだけである。その直接性よりその間接性のほうが実感しやすい。例えば、情動に含まれ感情に含まれる不安、恐怖を減退させるには、その対象を除去するか、対象を回避するか、それらの情動の傾向を減退させるかしかない。また、自律機能に含まれる動悸や息苦しさを減退させるには、休むかしかない。結局、ここでは間接的でないものが直接的であると言ったほうがよいかもしれない。
意識的機能は前述の随意運動と総合機能と後述するイメージ操作と思考を含む純粋意識的機能に大別される。イメージ操作はイメージの結合、分解、加工を含み、思考は狭義の思考、追想、予想、空想に大別される。
自発的純粋心的機能と純粋心的意識的機能
純粋心的機能のうち、感覚、知覚、連想、快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動は、自我から直接的に生じるわけではなく、意識的機能ではない。それらが自我から間接的に生じるまたは変化することはある。感情については既に例を挙げた。ここでは感覚について例を挙げる。『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、感覚の内容を変えるためには自我は「感覚を変える随意運動」を生じる必要があるが、それは自我による感覚の内容の間接的な変化に過ぎない。それらは自我から直接的に生じたり変化したりしない。私たちはそれらそのものは「自発的」に生じるまたは変化すると感じている。だから、それらを「自発的」純粋心的機能と呼べる。
それに対して、自我から直接的に生じえるまたは変化しえる純粋心的機能を純粋心的意識的機能と呼べる。純粋意識的機能は後述するイメージ操作と思考に大別される。
イメージ操作
少なくとも人間では以下のようなことが生じる。
(1)想起される一般のイメージをどのように操作するかという機能イメージが想起され、
(2)そのような機能イメージを含む自我が生じ、
(3)(1)で想起されまだ想起されている一般のイメージが機能イメージに指示されたように操作される
ことがあり、(3)の操作は意識的機能である。それを自我の「イメージ操作」、自我がイメージを操作することとも呼べる。
思考、追想、予想、空想…などのより複雑な純粋心的意識的機能はイメージ操作と連想とより小さな自我から構成される。
イメージ操作は以下を含む。簡単な例をそれぞれに添える。
(C)イメージの結合
離れていた二つの円のイメージを外接させる。
(D)分解
外接されていた円のイメージを引き離す。
(T)変形
円のイメージを楕円のイメージに変形する。
(BC)近づけ
遠くで想起される人の顔のイメージを近づける。
(TF)遠ざけ
近くで想起される人の顔のイメージを遠ざける。
(S)切り替え
他の人の顔のイメージを近づけることによってある人の顔のイメージを遠ざけるまたは消滅させる。
複合イメージは、自我によるイメージ操作がなくても、『感覚とイメージの想起』で説明された記憶の中だけでも生成する。だが、自我が結合、分解、変形、再結合…など繰り返し操作することによって、より複雑な複合イメージが生成する。
自発的純粋心的機能の中だけではイメージは儚く移ろいやすく、強く記銘されない。それに対して、自我によって操作されたイメージはイメージ野により長く残り、強く記銘される。簡単に言って、注意されたものが記憶され、注意されないものは記憶されない。自我がイメージを操作することを自我がそのイメージの素材に「注意」することとも呼べる。
イメージの切り替えと回避
『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、イメージの想起には比較的な量があり、イメージは比較的に「強く~弱く」想起される。だが、イメージの切り替えでは、視覚的イメージを用いたほうが分かりやすいと思うので、強く~弱く想起されることを視覚的比喩的に「近くで~遠くで」想起されることとも呼ぶことにする。自我はより遠くで想起されたイメージを近くで想起させることができる。それをイメージの近づけと呼べ、その逆をイメージの遠ざけとも呼べる。だが、後者は前者より困難である。それどころか遠ざけようとすればするほど近づき執拗に想起されるものである。それは自我が遠ざけようとするイメージがその自我が含む機能イメージの一部として想起されているからである。そもそも、自我が想起されていないイメージを直接的に想起させることは不可能である。また、想起されているイメージを直接的に想起されないようにすること、つまり、消し去ることは困難または不可能である。また、一時に一定数以下のイメージが想起され、いくつかのイメージが近くで想起されるとき、他のイメージは遠くで想起されるまたは消滅する。それらのことから、自我は他のイメージを近づけることによってしか想起されていたイメージを遠ざけるまたは消し去ることができない。自我が他のイメージを近づけることによって強く執拗に想起されていたイメージを遠ざけることを自我が(イメージを)いくつかのイメージから他のイメージへ「切り替える」ことと呼べる。自我がイメージをいわゆる「抑圧」をすることは困難または不可能であり、自我は多くの場合、イメージを切り替える。
さらに、あるイメージが不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い不快の感情を生じているとき、自我はそれらのイメージを他のイメージに切り替えることができる。だが、それらの不快の感情を減じるためには切り替える先はどんな些細なものでもよく問題にならない。例えば、自己の欠点が想起され、自己嫌悪という苦痛が生じているとき、その苦痛を減退させるためには、切り替える先は自己の些細な美点でも他人の些細な汚点でもよい。自我が不快の感情を生じるイメージを他のイメージに切り替えてその不快の感情を減じることを自我がそのイメージを「回避」すること、自我によるそのイメージの回避と呼べる。それに対して、自我がその不快の感情を生じるイメージを回避せず操作することを自我がそのイメージに「直面」すること、自我によるそのイメージの直面と呼べる。これらの著作はわたしたちはなにごとも回避せずなにごとにも直面しなければならないというのでは全くない。直面する必要があるものが何かを説明する。
単位的イメージ操作と複合イメージ操作
以下のように単位的イメージ操作と複合イメージ操作がある点でイメージ操作は随意運動と類似する。
それ以上小さなものに分離できないイメージ操作を「単位的」イメージ操作と呼べる。例えば、二つのイメージの結合、分解、一つのイメージの近づけ、遠ざけは単位的イメージ操作に含まれる。
それに対して、複数の単位的イメージ操作から構成されるイメージ操作を「複合」イメージ操作と呼べる。例えば、多数のイメージの結合または分解は複合イメージ操作に含まれ、それらはイメージの「構築」または「分解」と呼べる。だが、複雑な複合イメージの構築または分解は多くの場合、思考の中で行われる。
前述のイメージの回避を含む切り替えについて、一つのイメージを近づけるだけで問題となるイメージが遠ざかるなら、それは単位的イメージ操作である。複数のイメージを近づけなければならないとすると、それは複合イメージ操作でありえる。いずれにしても、イメージの回避を含む切り替えは複雑な複合イメージの構築より、はるかに容易である。『悪循環に陥る傾向への直面』で説明されるとおり、その容易さが落とし穴になる。
イメージ操作の能力と自我の傾向
意識的機能のうちの随意運動を生じる神経細胞群は前頭葉の機能的神経細胞群に始まりそれより下位を通り運動神経または脳神経に終わることは確認されている。それに対して、イメージ操作を生じる機能的神経細胞群の所在はまだ確認されていない。だが、以下の(1)(2)のいずれかである。イメージの想起を生じる神経細胞群は後頭葉または側頭葉または側頭葉にある。(1)イメージの操作を生じる機能的神経細胞群がそれらの葉にあって、イメージの想起を生じる神経細胞群と神経細胞路に介在するか、(2)イメージの操作を生じる機能的神経細胞群が前頭葉にあってそれらの葉に軸索を伸ばし、イメージの想起を生じる神経細胞群に介在するかのいずれかである。
いずれにしても、単位的イメージ操作を生じる単位的機能的細胞群は主として先天的に活性化されている。だから、単位的イメージ操作の能力は主として先天的に形成される。
複合イメージ操作を構成する単位的イメージ操作が繰り返されるとき、それらの単位的イメージ操作を生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が後天的に活性化され、イメージ操作のパターンが記銘され、複合的イメージ操作の能力が形成される。だから、複合的イメージ操作の能力は主として後天的に形成される。
さらに、複合イメージ操作とそれを含む思考とそれらを含む総合機能に関する限りで、以下のことが可能である。イメージ操作の産物は複合イメージとして記銘され保持され想起され再利用される。さらに、イメージの操作のパターンと思考パターンはイメージイメージ神経細胞路のうちの時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路の中でも記銘保持される。結局、複合イメージの操作の能力は機能機能神経細胞路と一部のイメージイメージ神経細胞路の活性化によって後天的に形成され、それらの能力はそれらの細胞路の能力である。
イメージ操作は随意運動を含まず、身体能力の制約を受けない。また、直接的には、内的状況の制約だけを受け、外的状況の制約を受けない。簡単に言って、それらに抵抗するものはほとんどない。だから、随意運動や総合機能の能力が未熟な新生児さえもイメージ操作で遊んでいる可能性がある。それなら退屈を少しはしのげる。
だから、イメージ操作の能力は単位的なものにせよ複合的なものにせよ先天的にせよ後天的にせよ容易に形成される。それ以前に、イメージ操作は容易過ぎて能力は問題にならない。他の多くの意識的機能が自身の能力の制約を受けるのに対して、イメージ操作は能力の制約を受けない。例えば、歩こうと思っても、その能力が未発達または減退していれば、歩けない。それに対して、歩くイメージを操作して想像の中で歩くのは容易い。
思考
前述のとおり、純粋心的機能のうち、感覚、想起、知覚、連想、快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動は、自我から直接的に生じるわけではなく、意識的機能ではない。それらを自発的心的機能である。それに対して、イメージの操作、思考は自我から生じ、意識的機能である。それらを純粋心的意識的機能と呼べる。
人間のイメージの想起、知覚、連想、自我、イメージの操作、思考はほとんどいつも言語イメージを含む。だが、「言語イメージを含む」という表現を逐次していると文章が煩雑になるのでそれを省略することにする。
少なくとも人間のそれぞれにおいて、知覚またはイメージの想起または連想とそれらによって想起されるイメージの自我による操作の反復が一つの機能を構成することがある。そのような繰り返しによって構成される機能を「思考」と呼べる。例えば、いくつかの問題が複合イメージとして連想され、自我がそれらの問題のいくつかを近づけて問題提起し、いくつかの回答が連想され、自我がそれらの回答のいくつかを操作し、自我がそれらのいくつかを近づけ採用し、または、いくつかを遠ざけて却下し、残っているまたは関連する問題が想起され…と繰り返される。それが思考の典型である。
思考は少なくともイメージの想起と自我によるイメージ操作を含み、自我によるイメージ操作を含むから自我を含むことになる。特に連想された問題または回答の中から一つを近づけ採用するときに自我が働く。そこでは、実践的な思考においては実益に対する期待が、理論的な思考においては矛盾のなさと整合性に対する期待が、一般の思考においては好奇心が情動系(動機)として機能する。実践的思考においては利益をもたらさない問題は却下され、理論的思考においては矛盾した回答は却下される。
自我は問題を近づける(操作の一種)ことによって、思考を開始することができる。また、自我は問題を切り替える(操作の一種)ことによって、思考を停止または切り替えることができる。だから、思考は意識的機能に含まれ純粋心的意識的機能に含まれる。
よく見てみると、より大きな自我が開始する思考が少なくとも連想とより小さな自我が開始するイメージ操作が含み、より大きな自我がより小さな自我を含むという重層構造があることが分かる。さらに、より大きな自我が開始したより大きな思考が、イメージ操作だけでなくよりより小さな自我が開始するより小さな思考を含むことがある。例えば、恋人と会う方法を考えていて、電車で行こうと決め、駅までどうやっていくかを考え始める。また、そのようなより小さな思考が長引いて、いつのまにかより大きな思考に取って替わっていることがある。例えば、駅までどうやっていくかを考えている間に長い目で見て車をどうやって手に入れるか考え始めることがある。より大きな思考がより小さな思考含むとき、両方を思考と呼ぶことにする。ここにはより大きな自我が開始するより大きな思考が、より小さな自我が開始するイメージ操作またはより小さな思考を含むという重層構造がある。自我に着目すると、より大きな自我がより小さな自我を含むという自我の重層構造がある。また、思考に着目すると、より大きな思考がイメージ操作またはより小さな思考を含むという思考の重層構造がある。
結局、思考を連想とイメージ操作と自我から常に構成され、より小さな等価物を含むことがある純粋心的意識的機能と定義できる。
思考を含む自我
それに対して、自我がイメージ操作または思考を完全に含んでしまうことがある。つまり、より大きな自我の中で想起される機能イメージをより小さな自我が操作するまたはそれについて思考する、つまり、より大きな自我がより小さな自我による機能イメージ操作または機能イメージについての思考を含むことがある。それは簡単に言って、「どうするか」を考えることである。特に、何かの意識的機能を生じなければならないがすぐに生じる必要がない状況では、より小さな自我は機能イメージについてゆっくり確実に考える。さらに詳細には、機能イメージの想起においては最初は概略が想起される。そこで、より小さな自我が概略を操作して外的状況の中で実行可能な詳細を考える。それからより大きな自我がその詳細を実行する。これはわたしたちが日常生活で通常していることであり、特殊なことではない。それは具体的な状況の中で具体的にどうするかを考えることである。例えば、対人回避の概略が機能イメージとして想起され、より小さな自我がそもそも職場や学校に行かないか、職場や学校に行くが対人関係を回避するか…などと考える。また、より小さな自我が機能イメージについて考えているうちに別の状況が突然生じて、より大きな自我が別のより大きな自我に切り替わることもある。また、より大きな自我の中でより小さな自我が機能イメージについて考えているうちに、そのより小さな自我と思考がより大きな自我に取って替わることがある。例えば、対人関係をどう回避するかを考えているうちに、よく回避する自己とは何かを哲学的または心理学的に考えていることがある。
狭義の思考、追想、予想、空想
思考のうち、現実の現在のもの、過去のもの、未来のもの、架空のものの想起が優勢なものをそれぞれ、狭義の思考、「追想」「予想」「空想」と呼べる。
また、以下は一方から他方へ連続するが、思考にはイメージの操作が優位なものと連想が優位なものがあるように見える。後者では思考が自発的に生じているように見える。いわゆる「とりとめもないことを考えていて、ふと我に帰る」というのが後者から前者に移行することである。
心的機能と言語
人間では、話し言葉が聴覚で感覚され、聴覚的複合イメージとして生成し記銘保持され想起される。また、書き言葉と記号が視覚で感覚され視覚的複合イメージとして生成し記銘保持され想起される。また、点字が、体性感覚で感覚され体性感覚的イメージとして生成し記銘保持され想起されることがありえる。書き言葉、記号、話し言葉、点字…などのイメージを「イメージとして現れる言語」「言語イメージ」と呼べる。
わたしたちは乳幼児期から親などの年長者に言葉だけでなく言葉が指すものも示される。あるいは言葉が何を指すかは状況から明らかな場合もある。だから、言語イメージが生成するまたは更新されるときに、言語が表すもののイメージも生成しまたは更新され、それらの素材の間の神経細胞路が時間的近さに基づいて活性化される。簡単に言って、言語とものが関連付けられる。その結果、言葉を聞くまたは見ると、言葉のイメージと共にそれが指すもののイメージも想起される。後者がいわゆる言葉の概念である。また、ものが複合イメージとして想起されるときには、その複合イメージは通常、言語イメージを含む。
言語の中の普通名詞は一般のものの集合を表し、ものを既に分類している。だから、言語は伝達の手段になるだけでなく、特定のものだけでなく一般のものをとらえることを容易にし、ものの分類と体系化を容易にする。
また、言語の中の文法のいくつかは、連想、思考パターンである。例えば、接続詞と主語述語関係のいくつかは原因と結果の関係を示す。だから、言語は連想と思考を容易にするとともに精巧なものにする。
もちろん言語は伝達と保存の手段でもある。言語によって複雑な複合イメージ、つまり、観念が生成し記銘保持され想起され、話し言葉として伝達されるだけでなく、書き言葉や記号として世代と地域を超えて伝達され保存される。かくして、人間の歴史の中で、天動説、地動説、天地創造、進化論、君主制、民主制…などの複雑な観念が構築される。それらの一部は次のようにして解消または再構築または忘却される。
複合イメージの構築、解消、再構築、忘却
複合イメージは自我やイメージ操作や思考がなくても感覚と記憶の繰り返しによっても生成する。だが、複雑な複合イメージは思考の中でイメージ操作によって構築され解消され再構築される。
複合イメージのいくつかは、思考の中でイメージ操作によって、結合され分解され変形され、記憶の中で記銘され保持され想起され、再び結合され分解され変形され…と続く。そのようにして、複合イメージが、結合が優位を占めるとき、より複雑になることもあり、分解が優位を占めるとき、より単純になることもあり、『感覚とイメージの想起』で説明されたように単純に忘却されることもある。個体の思考またはイメージ操作の中で、結合が優位を占め複合イメージがより複雑になることを複合イメージの「構築」、複合イメージが構築されることと呼べ、分解が優位を占め複合イメージがより単純になることを複合イメージの「解消」、複合イメージが解消されることと呼べ、複合イメージが解消された後で構築されることを複合イメージの「再構築」、複合イメージが再構築されることと呼べる。
日常でも科学でも、解消と再構築は構築より困難で重要な機能である。例えば、天地創造の解消と進化論の再構築は十九世紀と二十世紀の人々の一部には困難または不可能なことだったし、今でもそうである。だが、そもそも、自我によって操作されず思考されない複合イメージは解消ではなく単純に忘却されることが多い。
観念
複合イメージの素材のいくつかは、それぞれの個体の自我の中で前節のように構築、解消、再構築、忘却されるだけでなく、人間の社会と歴史の中で話し言葉、書き言語、芸術…などによって伝達され保存され、それらのいくつかがまたそれぞれの個体の中で構築、解消、再構築、忘却され…と続く。そのように構築、解消、再構築、忘却、伝達、保存される複合イメージまたはそれらの素材を「観念」または「思想」と呼べる。
操作され、思考され、伝達されることによって、結合が優位を占め観念がより複雑になることを観念の構築、観念が構築されることと呼べ、分解が優位を占めより単純になることを観念の解消、観念が解消されることと呼べ、解消された後で構築されることを観念の再構築、観念が再構築されることと呼べる。
社会と歴史の中での観念の解消と再構築は個人におけるそれらよりさらに困難である。何故なら古い観念によって権益と安定を得ている人々が古い観念を守り新しい観念を破壊しようとするからである。地動説に対する天動説、民主制に対する君主制、進化論に対する天地創造説がその典型である。
だが、多くの場合、個人におけると同程度に、社会と歴史の中でも観念の媒介は散逸し観念は忘却される。
現実性
複合イメージは自我がなくても記憶の中だけでも生成する。自我なしに記憶の中だけで生成した複合イメージはすべて、現実的である。より正確には、自我がなければ現実性は問題にならない。
それに対して、自我によるイメージの操作または思考によって、現実的でない複合イメージが生成することがあり、現実性が問題となる。また、現実性を巡って研究、論争…などが生じる。
また、人間は、文学、芸術…などで、敢えて非現実的な複合イメージを構築し伝達する。それが「虚構」である。
さらに、人間は敢えて現実的に見えて実際は非現実的な複合イメージを構築し伝達する。それが「嘘」である。
また、人間は知らずのうちに現実的に見えて実際は非現実的な複合イメージを構築する。それは「錯覚」または「誤解」に近い。
思考の能力
まず、思考は複合イメージ操作を主体とするイメージ操作を含むので、まず、機能機能神経細胞路の能力と一部のイメージイメージ神経路の能力が思考の能力を構成する。まず、それらの細胞路が後天的に活性化されて、思考の能力が後天的に形成される。比喩的に言うと、思考が繰り返されるうちに、それらの細胞路が思考の「道筋」として活性化されて、思考が容易に生じるようになる。
次に、思考は連想を含む。だから、思考の能力の形成において、一部のイメージイメージ神経細胞路の活性化が優勢になる。
結局、思考の能力は機能機能神経細胞路の能力と一部のイメージイメージ神経細胞路の能力であり、イメージ操作より後者が優勢になる。
結局、思考はイメージ操作より複雑である。思考の能力はイメージ操作の能力より複雑である。前者の形成は後者の形成ほど容易ではない。また、前者は後者より後天的に形成される。
他の意識的機能の能力と同様に思考の能力は概略ではなく亜群を単位として形成される。例えば、思考には、法学的思考、経済学的思考、哲学的思考、物理学的思考、生物学的思考、日常的思考…などの亜群があり、それらのすべてに優れた人はあまり居ない。それどころか、それらの亜群の中にも亜亜群がある。例えば、社会契約説と功利主義の両方に優れた人はあまりいない。
思考の能力と自我の傾向
まず、科学技術や専門的職業における専門的思考と日常生活における日常的思考を区別する必要がある。
比喩的には専門的思考の能力の形成は先人が通った神経細胞路を辿って活性化して行くことである。そのような活性化は書物を読み講義を聞き議論し実験観察…などすることによって形成される。
それに対して、日常生活における日常的思考の能力は、成文法、慣習法、倫理、宗教…などを通しても形成されるが、ほとんどは日常の体験と身近な人々との会話の中で形成される。いずれにしても、専門家やエリートも日常生活を通過しなければ、専門的職業に就くことができない。彼らにとっても日常的人間関係を含む日常生活が不可欠であり、専門的思考より日常的思考のほうが重要である。
だが、前述の自我に含まれる思考、つまり、機能イメージにつての思考が最も重要である。というより、そのような思考が日常的思考である。
さて、前述のイメージの回避におけると同様に、思考において自我は不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い精神的苦痛を生じる思考を苦痛を生じない思考に切り替えて、それらを回避する。そのような思考をイメージ回避に含めることにする。思考または連想の中で自己の欠陥につきあったってしまうと、不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い精神的苦痛が生じるので、自我はしばしばそれらのイメージを回避する。すると、自我が自己の欠陥に直面することがますますできなくなる。それこそが私たち人間の最も重大0な悪循環である。そのようなイメージ回避は思考の能力によって生じるのではなく、自我の傾向によって生じる。
以上のことから思考の能力より重要であり人格の中で最も重要なのは自我の傾向である。
総合機能
前述の定義によると、総合機能は随意運動と純粋心的機能を含む。だが、その純粋心的機能は自発的純粋心的機能だけでなく自我によるイメージ操作と思考という純粋心的意識的機能を含む。例えば、言葉を話すことは、自分が話した言葉を知覚しながら正しいか考え確認しつつ何を話すか考えて発声する総合機能である。総合機能は言葉を話す、言葉を書く、計算する、機械を操作する、遊ぶ、仕事をする、勉強することや対人機能を含む。
さらに、より大きな総合機能がより小さな総合機能を含むことがある。例えば、パーティに参加することをより大きな対人機能という総合機能と見なすことができ、その中での個人との出会いをより小さな対人機能という総合機能と見なすことができる。
だが、より大きな意識的機能にせよ小さなものにせよ自我から直接的に生じ、それらは意識的機能である。
結局、より大きな自我が生じるより大きな総合機能がより小さな自我が生じる随意運動、イメージ操作、思考を含み、より小さな総合機能を含むことがあるという重層構造がある。
結局、総合機能を随意運動と純粋心的意識的機能を含む純粋心的機能と自我から構成され、より小さな等価物を含むことがある意識的機能と定義できる。
総合機能の能力
総合機能が思考と異なる点は、前者が随意運動、それも実質的に複合随意運動を含む点においてである。だから、総合機能の能力は、(1)思考の能力と、(2)複合随意運動の能力である横紋筋の収縮力と関節の柔軟性と機能機能神経細胞路の能力と、(3)複合随意運動を生じる機能的神経細胞群または機能機能神経細胞路と思考を生じるそれらとの間の機能機能神経細胞路の能力である。だから、(1)(2)のそれぞれを別個に形成すれば、総合機能の能力の形成は完成するというものではない。(3)の神経細胞路はかなり複雑だから、(3)を形成するためには実際に特定の総合機能を試行錯誤して生じるしかない。そのことはすべての意識的機能の形成に言えるのだが、総合機能の能力の形成においては試行錯誤は最も重要である。特に対人機能能力の形成にそのことが言える。
複雑な自我
自我の多重構造
自我と思考の多重構造、自我と総合機能の多重構造と、段階を踏む自我については既に説明した。この章ではそれらを別の方法で説明する。
機能イメージが明確で強く想起され、機能的衝動が強く生じる被限定自我を明確で強い自我と呼べる。逆に、機能イメージが曖昧に弱く想起され、機能的衝が弱く生じる自我を曖昧で弱い自我と呼べる。
前章で説明された通り以下の意識的機能に係る自我の多重構造が可能である。
(1)より大きな自我が生じるより大きな思考がより小さな自我が生じるイメージ操作とより小さな思考を含む。
(2)より大きな自我が生じるより大きな総合機能がより小さな自我が生じるイメージ操作と思考とより小さな総合機能を含む。
(3)より大きな自我がより小さな自我が生じる機能イメージの操作または思考を含む。
(1)(2)(3)においては、大きな自我または意識的機能は小さな自我または意識的機能よりゼロコンマ数秒から数秒早く生じている。(1)(2)において、より大きな自我がより大きな意識的機能を開始するときは、より大きな自我が明確に強く生じている。それに対して、より小さな自我がより小さな意識的機能を生じるときには、より小さな自我が明確で強く生じ、より大きな自我は曖昧に弱く生じている。だから、そのような自我の重層構造が可能になる。
段階または手段としての意識的機能
前節のような重層構造が明らかになると、以前に説明された段階を踏む自我は重層構造(1)(2)の中のより小さな自我であり、(1)(2)の中のより小さな意識的機能はより大きな意識的機能の詳細または段階または手段であることが分かる。例えば、化粧をして、何を着るかを考え、服を着るのは恋人に会うための段階または手段である。また、試験管を洗うことは実験をするための段階または手段であり、実験は研究のための段階または手段である。そのように見ていくと日常生活と科学のほとんどは段階または手段であることが分かる。
思考を巻き込む自我
大きな(被限定)自我の中で機能イメージが想起され、それがすぐに自我の全体を生じるのではなく、機能イメージをより小さな自我が操作または思考し修正し、修正された機能イメージがより大きな自我を生じ、修正された意識的機能が生じることがある。そこにはより大きな自我がより小さな自我が生じる機能イメージの操作または思考を巻き込むという重層構造(3)がある。そのような大きな自我を思考を巻き込む自我と呼べ、そのような小さな自我によるイメージ操作または思考を自我に巻き込まれる思考と呼べる。
だが、思考するにはゼロコンマ数秒から数秒の時間がかかる。そのような時間がない状況では、自我と思考が中途半端に終わり、中途半端な意識的機能が生じるか何も生じないことがある。例えば、横断歩道に入る前に信号が急に点滅したときは、上半身は進むが下半身が止まるまたはその逆がありえる。
複数の被限定自我が生じること
一時に複数の被限定自我(e1, e2, …)と意識的機能が生じることがある。そのような場合、被限定自我の機能イメージの想起の明確さと強さと機能的衝動の強さには比較的な差がある。例えば、いつもの道を歩き(e2が生じる)ながら複雑なことを考え(e1が生じる)ているとき、e1の機能イメージはe2のものより明確に強く想起され、e1の機能的衝動はe2のものより強く生じている。そのような場合、前述のとおり、e1を明確で強い被限定自我と呼べ、e2を曖昧で弱い被限定自我と呼べる。
さらに、e3の機能イメージがe4のものより明確に強く想起され、e4の機能的衝動がe3のものより強く生じるということがありえる。例えば、道のりを変えることを考え(e3)ながら、険しい道を歩いている(e4)とき、e3の機能イメージがe4のものより明確で強く想起され、e4の機能的衝動がe3のものより強く生じるというようなことがありえる。そのような場合、e3を「理性が強い被限定自我」または理性的被限定自我と呼べe4を「情動が強い被限定自我」または情動的被限定自我と呼べる。
また、数秒から数分の間に次々と生じる被限定自我(et1, et2, …)の間にも同様のことが言える。例えば、休日に家にいて(et1が生じる)、遊びに出かける(et2が生じる)とき、et1は曖昧で弱い被限定自我であり、et2は明確で強い被限定自我である。また、怒りから何かを破壊しかけて(et3)、思い止まる(et4)とき、et3は情動が強い被限定自我または情動的被限定自我であり、et4は理性が強い被限定自我または理性的被限定自我である。
半自動的意識的機能
例えば、自我は、バッグを持って駅まで歩きながら、今日の予定を考えることができる。考えること(1)、歩くこと(2)、持つこと(3)はすべて、意識的機能である。そのように一時に複数の被限定自我と意識的機能が生じることはある。だが、(2)(3)の自我は曖昧で弱く、(2)(3)の意識的機能は「自動的」に進行していると見なせる。だが、そのように自動的に進行することができる意識的機能は単位的随意運動と複合的随意運動に限られる。総合機能と純粋心的意識的機能は自動的に進行しえない。前の例では(1)は自動的に進行しえない。そのように自動的に進行しえる意識的機能を「半自動的」意識的機能と呼べる。
「自動的」という言葉に「半」という接頭辞を付けたのは以下の理由による。
半自動的意識的機能でもそれを始めるときや状況に意識的機能に係る大きな変化が生じたときは自我が活発に働いている。例えば、自我が歩き始めるときには、歩いて間に合うか考えて歩き始める。バックが肩からずりおちそうなときは、自我はどうすればずりおちないか考えてしっかりと肩に掛ける。
また、能力が形成されつつある意識的機能を生じるときにも自我が活発に働いている。例えば、いつも優雅に歩いて来た人では、質素に歩く能力が発達していない。そういう人が質素に歩こうとするときは、どうやったらそのように歩けるのか自我が活発に働いて考えている。
ところで、思考も自動的に進むことがあるように見えることがある。だが、思考はイメージの想起または連想と自我によるイメージの操作とより小さな思考から構成される。連想が優勢な思考が半自動的に進行するように見えることはあるが、連想は意識的機能ではなく自発的心的機能である。だから、より正確には、連想が優勢な思考は「自発的に」進行するように見えると言わなければならない。前述のとおり、思考が繰り返されることによって、一部のイメージイメージ神経細胞路が活性化される。その結果、思考の能力が形成されるだけでなく連想の傾向が形成される。その結果、思考の中で連想がますます優位になり、思考はますます自発的に進行しているように見える。
そのような思考の中での連想の自発性に対して、総合機能は半自動的意識的機能でありえる随意運動を含む。随意運動が優位な総合機能の能力が形成されるとき、総合機能は半自動的意識的機能に近づく。例えば、機械を操作するという総合機能は、繰り返しているうちに、ますます半自動的に生じているように見える。だが、機械の自動性と比較するとあくまでも半自動的である。
慣性的自我
半自動的意識的機能と段階または手段としての意識的機能が生じるときには、最初は強いが後は曖昧で弱い自我が生じている。そのような曖昧で弱い自我を「慣性的」自我とも呼べる。簡単に言って、わたしたちの日常生活のほとんどは慣性である。
自我の自由
さて、一見して自由に見えた自我が自身の傾向と慣性と情動と段階にとらわれておりそんなに自由でないことが分かる。さらに、自我は『悪循環に陥る傾向への直面』で説明される自身の悪循環に陥る傾向にとらわれている。だが、同じその著作で説明されるようにして、自我が自身の傾向を再形成することは可能である。自我がそうするとき自我は最も自由に近い。では、『悪循環に陥る傾向への直面』へ進もう。
参考文献
感覚とイメージの想起
悪循環に陥る傾向への直面
生存と自由(日本語訳)
小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"