自由権、社会権、権力の詳細は『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』で説明される。この著作ではそれらについて簡単に説明する。
個人が意識的機能を自我が意図するままに生じることを「自由」と呼べ、自由のうち、憲法によって実現が認められる必要があるものを「自由権」と呼べる。自由権は他の個人や集団の暴力、威嚇、欺瞞…などによって侵害されうる。自由権はそのような自らを侵害するものに対して公権力が対処することを要求する権利でもある。自由権は一方で他の個人や集団の権利のために明確な条件の下に制限されざるをえないものと、他方で誰のためにもいかなるもののためにも制限されてはならず制限される必要がないものとに区別できる。前者は私有財産の自由、契約の自由を含み、後者は生命の自由、思想、信仰の自由、公権力とその保持者に係る言論、表現の自由を含む。
それに対して、「社会権」、または「広義の生存権」は、個人や小さな集団の力によっては実現することが不可能または困難な個人と集団の存在と機能に対して、公的機関が機能することを要求する権利である。現代社会では、基本的な労働環境の維持、経済の成長または安定化、市民の最低限度の生活の維持、健康と福祉の増進、子供たちへの最低限度の教育の提供、環境の保全、資源の保全と有効利用、適正人口の維持…などが社会権の保障に含まれる。結局、社会権の保障は人間を含む生物の生存の保障と大部分で重なる。それらは完全に重なるわけではないのだが、それらは「同一である」などの表現も一概に間違いではない。これらの著作ではそのような表現がなされることがある。
自由権の擁護と社会権の保障の区別について例を一つ挙げる。命を救うことでさえも自由権の擁護か、社会権の保障かのいずれかでありえる。個人の生命が、他の個人や集団の暴力によって侵されかけており、公的機関がその暴力を抑えることによって個人の生命が救われるとき、そのような生命を救うことは自由権の擁護、より詳細には生命身体の自由の擁護である。それに対して、いくつかの家族の生命が、食糧と水の欠乏によって危うい状態にあり、公的機関がそれらを供給することによって生命が救われるとき、そのような命を救うことは社会権の保障、より詳細には狭義の生存権の保障である。
他の個人または集団の存在または機能または手段を直接的または間接的に破壊または抑制または促進する能力をもつ人間の個人または集団の存在または機能または手段を「権力」と呼べる。権力は手段を含む。また、有形のものだけでなく、カネ、人間関係における影響力…などの完全に有形とはいえないものを含む。また、他の個人または集団のそれらを直接的物理的に破壊または抑制する能力をもつ権力を「武力」と呼べる。武力は権力に含まれる。いくつかの権力は自由権を侵害する能力をもつ。武力は自由権を直接的物理的に侵害する能力をもつ。もっとも、武力はそれらを間接的に抑制する能力ももつ。威嚇や脅迫がそれである。
だが、いくつかの権力は、自由権を侵害する能力をもつだけでなく、自由権を侵害する権力を抑制することによって自由権を擁護する能力をもつ。武力は、自由権を侵害する能力をもつだけでなく、他のいくつかの権力が自由権を侵害することを抑制することによって直接的物理的に自由権を擁護する能力をもつ。例えば、武力は暴力が生命、身体の自由を侵害することを抑制することによってをそれらを擁護する可能性をもつ。
さらに、いくつかの権力が自由権を侵害または擁護する能力をもつだけでなく、他のいくつかの権力は社会権を保障する能力をもつ。例えば、行政権の人力とカネは医療福祉などのサービスを提供することによって市民の健康を増進する能力をもつ。