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宗教を超えて(超宗教)(日本語訳)

これらの著作

  この『宗教を超えて(超宗教)』を「この著作」と呼び、この著作と『生存と自由』『生存と自由の詳細』『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』『感覚とイメージの想起』『自我と自我の傾向』『悪循環に陥る傾向』を「これらの著作」と呼ぶことにする。
  『生存と自由』の最初の部分は実質的に宗教を超える方法を提示している。だから、この著作はその部分とほとんど同じである。

  不要な議論が生じないようにまず、宗教を明確に定義する必要がある。現実の世界を超越するものの存在を前提とし、現実の世界を超越したものに基づいて個人と集団の生き方と死に方を提示し、ときにそれらを押しつけるものを「宗教」と定義できる。現実的なものを超越するものもそれに基づくものも恣意的にならざるをえず、それぞれの宗教に特有のものにならざるをえない。だから、宗教は、世界の個人や集団のすべてはもちろん多くの生き方や死に方を提示することができない。生存を可能にする方法も、自由を可能にする方法も、それらを両立させる方法も、それらの多くがある程度、理解する必要があり、宗教はそれらの方法を提示することができない。もし、いくつかの宗教がそれらの方法を提示し布教しようとすれば、宗教と宗教の間、宗教をもつ集団の間で不必要な争いが生じ、人間を含む生物の生存さえも危うい。特に、ほとんどの宗教は、自身の神を冒涜することを含めて自身を批判するものは物理的暴力を用いてでも破壊してよいあるいは破壊しなければならないという考えに陥りがちであり、それによる争いは致命的になりえる。
  だから、人間を含む生物の生存と人間の自由を両立させる方法は宗教なしで提示される必要がある。この鉄則はこれらの著作を通じて遵守される。
  だが、わたしたち人間のそれぞれは自己がやがて死ぬことへの不安をもつ。この不安はすべての情動のうち最大の苦痛である。その不安から自己を永遠の存在にしようとする欲求、つまり自己永遠化欲求が形成される。そこで、多くの人間がときに歴史に自身の栄光や名誉を残そうとする。それらのいくつかは権力を獲得して何か偉大なことをしようとする。そのような動機がなくても権力は魅力的である。そのような権力は武力やカネを含む。そして権力闘争は熾烈になる。そのような権力闘争が軍拡、戦争、独裁、全体主義、軍官学産複合体の形成、全体破壊手段の研究開発…などに繋がり、人間の生存さえも危うくする。だから、生存と自由を両立させるためには、人間の自己がやがて死ぬことへの不安を減退させ自己永遠化欲求を減退させるまたは満たすことも必要である。また、その不安を含めて苦痛を減退させることはそれ自体、目的である。
  そもそも、宗教はその不安を減退させその欲求を減退させるまたは満たすためにあったのではないだろうか。だが、宗教はそれらをすることができなかったのではないだろうか。だが、それらをするには宗教が最適であるように見えてきたことは確かである。宗教なしでそれらをすることは可能なのかという疑問は残るだろう。
  また、生存と自由を両立される方法だけではなく、多くの個人や集団が共有できる何かは必要であるという主張は残り、宗教なしにそれらを提示できるのかという疑問は残るだろう。
  だが、それらの方法も自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる方法も自己永遠化欲求を減退させるまたは満たす方法さえも宗教なしで提示できる。まず、それらをやってみる。

自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる方法の概略

  以下のようなことはよく言われる。「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」とはよく言われる。結局、それは正しい。ところがその不安はなかなか減退しない。それは何故か。
  多くの人間は、その不安の中で、この、特定の、わたしの自己を永遠化しようとする。だが、それが絶対的に不可能であることを誰もが知っている。だがそれでもわたしたちはそれを試みる。その結果、自己が唯一の入れ替わり不能の存在であるように感じられ、自己が死んだ後には永遠の時間と空間があるように感じられる。だから、その不安が強烈を超えて絶対的なものになる。その不安を減退させるためには、わたしたちのそれぞれはまず、この、特定の、わたしの自己がやがては死ぬことを受容する必要がある。そしてそれを悲しもう、恐れよう。天国や地獄や極楽や永遠の魂や精神があるなどという観念は捨て去ろう。その後でも、この、特定の、わたしの自己ではなく、一般の自己があるのではないか。それは入れ替わり可能なのではないか。
  だが、入れ替わり可能性を否定し入れ替わり不能を強調しその不安を強化する考え方は多い。例えば、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている。そのようにわたしたちのそれぞれは完全に孤立している。だから、わたしたちは互いに入れ替わることができない」…などの観念がある。そのような観念は入れ替わり可能性を否定し入れ替わり不能性を強調し、その不安を強化する。それらの観念が錯覚に過ぎないことを示せば、自己がやがて死ぬことへの不安は減退するだろう。そのような錯覚を払拭するためには、心的現象、つまり、現れるものの概略を知っておく必要がある。

心的現象として現れるもの

  物質、物質機能、身体、身体機能、神経系、神経機能、神経細胞、神経細胞の興奮と伝達、分子、原子、原子核、中性子、陽子、電子、万有引力、静電気力、磁力…などを「ものそのもの」と呼べる。それに対して、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、空腹、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「心的現象として現れるもの」、現象として現れるもの、現れるもの、心的現象、現象…などと呼べる。これらの著作はわたしに現れるもの、あなたに現れるもの、過去に現れたもの、未来に現れるであろうもの、わたしに現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの…などを区別する必要がある。形容詞句・節や副詞句・節で修飾されたまたは動詞の時制が変化したわたしに現在に現れているもののような言葉だけがそれらを区別できる。だから、これらの著作は現象、心的現象…などの言葉よりそのような言葉を多用することにする。また、現れるものが存在することまたは存在すると前提されることをものが「現れる」ことと呼べる。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓…などの光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れている。空間と時間を除くものはものそのものと心的現象として現れるものに完全に分けられる。つまり、それらが分けられた後に余りも重複もない。空間と時間に関する限りでそのように明確に二分されるわけではない。
  さて、ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができる。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓…などの光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れており、それらの光景、音、感覚…などが存在することをわたしは確かめることができる。ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができることにおいて、ただ一つのものを「わたし」または「自我」と呼べ、ただ一つの時を「現在」と呼べ、ただ一群のものを「わたしに現在に現れているもの」またはわたしに現在に現れている一群のものと呼べる。また、わたしに現在に現れているものが存在することをものが「わたしに現在に現れている」ことと呼べる。わたしに現在に現れているものは心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしに現在に現れていることはものが現れることに含まれる。わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができる。
  それに対して、わたしはそれ以外のものが存在することを確かめることができない。例えば、わたしの眼の前にはパソコンがあり、わたしはそれが存在することを確かめることができるように見える。だが、その確かめることができるものはその光景に過ぎず、わたしに現在に視覚で現れているものの一つに過ぎない。わたしはパソコンそのものが存在することを確かめることができない。そのパソコンを触ってみても、それはわたしに現在に体性感覚で現れるものの一つに過ぎない。わたしが存在することを確かめることができるものはわたしに現在に現れているものだけである。
  わたしに現在に現れるものの中で、それらはある点に向かいその点を原点として現れる。例えば、両眼で視覚で現れるものに中では、対象の方向とそれへの距離と遠近感が現れ、それらは両眼の真ん中よりやや奥を原点として現れる。また、両耳で聴覚で現れるものの中でも音源の方向とそれへの距離が現れる、それらは両耳の真ん中あたりを原点として現れる。そのような原点は直接現れないが、わたしに現在に現れているものの背後に現れる。そのような原点を「わたしに現在に現れている世界の中心」と呼べる。わたしに現在に現れているものがすべてそのような点に向かって現れそのような点を原点とすることから、わたしは世界の中心であると感じざるをえない。それは自然な感じであり、決して傲慢なわけではない。そのような感じを「わたしが世界の中心である感じ」と呼べる。
  そのような世界の中心は、前述のわたしに現在に現れているものが存在することを確かめることができる唯一のものよりわたしたちが日常で「わたし」と呼んでいるものに近い。だから、わたしに現在に現れている世界の中心も「わたし」と呼べる。
  以上の

(1)存在することを確かめることができるものがわたしに現在に現れているものだけであること。
(2)わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと。

から、わたしは他と取って替わることも他によって取って替わられることもできないと感じざるをえない。(1)(2)も、入れ替わり不能の錯覚を促進し、自己がやがて死ぬことへの不安を増大させる。そのように心的現象として現れるものを中途半端に突き詰めるとその錯覚と不安は増大する。もっと突き詰めるとどうなるか。
  さて、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができる、または、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができると前提される。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔の光景、聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができ、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔の光景、聴覚で現れているわたしの声が存在することをあなたは確かめることができると前提される。それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができる、または、それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができると前提されることにおいて、それぞれのものを「わたしたちのそれぞれ」と呼べ、それぞれの時を「そのとき現在」と呼べ、それぞれの群のものを「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの」、または、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている一群のものと呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在する、または、存在すると前提されることをものが「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていること」と呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは、わたしに現在に現れているものを含み、心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていることは、ものがわたしに現在に現れていることを含み、ものが現れることに含まれる。また、わたしたちのそれぞれはわたしを含み、そのとき現在は現在を含む。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを確かめることができる、または、確かめることができると前提される。
  (1)わたしに現在に現れているものと(2)(1)を除くわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを重なりなく区別することができる。(1)においてはどんな前提も不要であり、(2)においてはいくつかの前提が必要である。そのような前提の必要性を除いて、(2)とそれに関連するものは、(1)とそれに関連するものと、全く同様である。つまり、(2)はある点に向かいその点を原点として現れると前提される。そのような原点とわたしに現在に現れている世界の中心を「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心」と呼べる。また、わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。そのような感じとわたしが世界の中心である感じを「わたしたちのそれぞれが世界の中心である感じ」と呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心をわたしたちのそれぞれとも呼べる。
  さて、ものそのものが存在するかを確かめることはできない。例えば、わたしには現在、パソコン、パソコンを打つわたしの手、机…などが視覚で、キーボードを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で現れており、それらが存在することをわたしは確かめることができるが、それらは光景、音、感触…など、つまり、心的現象として現れるものに過ぎず、ものそのものではなく、わたしは何をしてもパソコン、キーボード…などそのものが存在するかを確かめることができない。さらに、わたしに現在に現れているものを除く心的現象として現れるものが存在するかを確かめることができない。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔と聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができるが、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔と聴覚で現れているわたしの声が存在するかをわたしは確かめることができない。
  だが、心的現象として現れるもののいくつかはものそのもののいくつかを再現していると前提され、そのようなものそものは存在すると前提される。さらに、(わたしに現在に現れているものを除く)心的現象として現れるものは、ものそのものを再現していようがそうでなかろうが、存在すると前提される。心的現象に関する限りで、幻覚や妄想や錯覚や誤解や虚偽さえもそれなりに存在すると前提される。もちろん、(わたしに現在に現れているものを除く)わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは存在すると前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしにあなたが見えるように、あなたにわたしが見えるとわたしは思っている。
  さらに、(わたしに現在に現れているものを除く)わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができる、と前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔が存在することをわたしが確かめることができるように、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔が存在することをあなたは確かめることができるとわたしは思っている。
  さらに、(心的現象として)現れるものはしばらくの間、連続して存在すると前提される。例えば、朝起きてから夜眠るまで、太陽の光を反射する街、人間を含む生物、夕日、街灯…などの光景、車の音や人間の声、この著作で書くことのイメージ…などが連続して存在すると前提される。また、わたしに現在に現れているもの、あなたに現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの…などはそのような現れるものをいわば瞬間という時間で輪切りにしたできた産物に過ぎないと前提される。
    だが、REM睡眠を除く睡眠と完全な意識消失の後の覚醒がある。それらをもっては現れるものは連続して存在しないと前提される。だが、少なくともわたしたち人間においては覚醒後には睡眠または意識消失の前に現れたものがイメージとして現れる。例えば、わたしが朝に目を覚ますと、昨日書いたことがイメージとして現れる。そのように、REM睡眠を除く睡眠と完全な意識消失の後の覚醒があっても、それらの前のことがイメージとして現れるという意味でのみ、現れるものは断続すると見なせる。
  だが、前述のように現れるものを輪切りにするときには、「わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができるが、あなたに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができない」という事実は揺るぎなく残る。前述のように現れるものが断続する場合でも、「あなたにイメージとして現れるそれらの前のことが存在することをわたしは確かめることができない」という事実は揺るぎなく残こる。だから、わたしに現在に現れているものを含む現れるもの、あなたに現在に現れているものを含む現れるもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを含む現れるもの…などは区別される必要がある。それらをそれぞれ、「わたしに現れるもの」またはわたしに現れる一群のもの、あなたに現れるものまたはあなたに現れる一群のもの、わたしたちのそれぞれに現れるものまたはわたしたちのそれぞれに現れる一群のもの…などと呼べる。例えば、地球上の昼行性の動物に朝起きてから夜眠るまでに現れるものの全体はわたしたちのそれぞれに現れるものに含まれる。そのように区別するとき、以下のことが分かる。現れるものが連続または断続して存在すると前提されるのは、一群のわたしたちのそれぞれに現れるものの中でであって、複数の群のそれらの間でではない。例えば、わたしに現れるものとあなたに現れるものの間では現れるものは連続も断続もしないと前提される。
  以上のように定義されてきたわたしに現在に現れるもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるもの、わたしに現れるもの、わたしたちのそれぞれに現れるものが(心的現象として)現れるものである。
  いずれにしても、わたしたちのそれぞれに現れるものの中では、何も現れない時間は無であり、何かが現れた第一の時間から再び何かが現れる第三の時間まで何も現れない第二の時間を一瞬で跳躍し、第二の時間は無であると前提される。その結果、第一の時間と第三の時間は連続しているように見えると前提される。例えば、わたしが突然、深い睡眠または意識消失に陥り、突然、それから覚醒したとすれば、その睡眠または意識消失の時間は一瞬と感じられるだろう。だが、ほとんどの場合、睡眠は夢または浅睡眠を含み、意識消失は意識の漸減漸増を伴っており、その時間をしばらくの間と感じるだろう。いずれにしてもそれは長い時間ではない。このことは自己がやがて死ぬことへの不安を減じるためには都合がよい。例えば、死んで何光年かなたの惑星の動物と入れ替わるにしても、それまでの時間は一瞬だからである。
  さらに、わたしの身体の中では、わたしにイメージとして現れるもの、わたしに快不快の感覚で現れるもの…などを含めて、わたしに現れるものはわたしの神経系とその機能のいくつかの部分から生じると前提される。神経系は身体の一部であり、身体はものそのものに含まれる。例えば、わたしの身体の中では、わたしに視覚で現れるものは網膜から視神経を経て後頭葉の視覚野…などに至る神経細胞群の興奮と伝達から生じると前提される。また、皮膚、横紋筋、骨、腱…などの痛さ、暑さ、寒さ…などの体性感覚で現れるものはそれらから感覚神経、脊髄、脳幹を経て頭頂葉の体性感覚野…などに至る神経細胞群の興奮と伝達から生じると前提される。いくつかの部分がわたしに現れるものを生じると前提される神経系とその機能を「わたしの神経系」と呼べる。また、わたしの神経系を含む個体の身体を「わたしの身体」と呼べる。
  だが、以上のことが前提された後でも、わたしはわたしの身体がわたしであると認めることはできない。それはわたしの身体のいくつかの部分から生じると前提されるわたしに現在に現れているものが存在せず、それらが存在することを確かめることができない限りは、わたしは存在しないと直感しているからである。簡単に言って、わたしは脳死が死であることを直感している。そのように、わたしはわたしの身体とわたしに現れるものがわたしであると直感している。その直感に従って、わたしの身体とわたしに現れるものとを「わたしの自己」または「わたし」と呼ぶことにする。
  また、わたしたちのそれぞれに現れるものも同様に生じると前提される。いくつかの部分がわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される神経系とその機能を「それぞれの神経系」と呼べる。また、それぞれの神経系を含む個体の身体を「それぞれの身体」と呼べる。また、それぞれの身体とわたしたちのそれぞれに現れるものを「それぞれの自己」または「わたしたちのそれぞれ」と呼べる。
  これまでは、以下のA群、B群、C群を区別してきた。

A群:
わたし、現在、わたしに現在に現れているもの、わたしに現在に現れている世界の中心、わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと、わたしに現在に現れているものが存在することをわたしが確かめられること

B群:
わたしに現れるもの、わたしの神経系、わたしの身体、わたしの自己
C群:
わたしたちのそれぞれ、そのとき現在、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心、わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提されること、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめられると前提されること

D群:
わたしたちのそれぞれに現れるもの、それぞれの神経系、それぞれの身体、それぞれの自己、
それらについてある意味で以下のことが言える。

わたし⊂わたしたちのそれぞれ
現在⊂そのとき現在
わたしに現在に現れているもの⊂わたしたちにそのとき現在に現れているもの
わたしにその現在に現れている世界の中心⊂わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心
わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと⊂わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提されること
わたしに現在に現れているものが存在することをわたしが確かめることができること⊂わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提されること
わたしに現れるもの⊂わたしたちのそれぞれに現れるもの
わたしの神経系⊂それぞれの神経系
わたしの身体⊂それぞれの身体
わたしの自己⊂それぞれの自己

だが、A群が前提から解放されているのに対して、B、C、D群は前提にしばられている。だが、それを除くと、A、B群に当てはまるものはすべてC、D群にも当てはまる。だから、今後はA、B群とC、D群の区別せず、C、D群について論じることにする。また、わたしの神経系を含むそれぞれの神経系、わたしの身体を含むそれぞれの身体、わたしの自己を含むそれぞれの自己を神経系、身体、自己とも呼ぶことにする。
  わたしたち人間においては、自己のイメージが生成し、自己がイメージとして現れる。だから、人間は自己について考えたり、自己がやがて死ぬことへの不安を抱いたりするのである。自己のイメージは自己の身体のイメージとわたしたちのそれぞれに現れるもののイメージから構成されざるをえない。だから、自己のイメージは図式になりえないかなり複雑なものになる。それに対して、世界のイメージは自己のイメージより早く生成しており、図式になりえそんなに複雑ではない。だから、自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間には間隙が存在し、その間隙を完全に埋めることは不可能である。
  わたしたちの多くは自己を世界と一体化することによって自己がやがて死ぬことへの不安を乗り越えようとする。乳児期幼児期前半からの孤立によっては、自己のイメージと世界のイメージの間の間隙が拡大することがある。すると、自己を世界と一体化することが困難になり、自己がやがて死ぬことへの不安が強くなる。

自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる決定的方法

  それらが心的現象として現れるものの概略である。繰り返すが、「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」とはよく言われる。結局、それは正しい。ところがその不安はなかなか減退しない。それは何故か。以下のような入れ替わり不能の錯覚があるからである。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている。そのようにわたしたちのそれぞれは完全に孤立している。だから、わたしたちは互いに入れ替わることができない」  その入れ替わり不能の錯覚を払拭すれば、自己がやがて死ぬことへの不安は減退するだろう。では、その錯覚を払拭してみよう。
  前述のとおり、

(1)わたしに現在に現れているものが存在することを、わたしは確かめることができる。それに対して、それ以外の心的現象として現れるものが存在することをわたしは確かめることができない。
(2)わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえない。
(3)自己のイメージと世界のイメージとの間の完全に埋めることができない間隙がわたしに現在に現れている。

主として(1)(2)(3)から

(4)「わたしはかけがえのない存在である」「わたしたちは互いに入れ替わることができない」というような入れ替わりの不能さをわたしは感じざるをえない。

それらの(1)-(4)に対して、

(1')わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを、わたしたちのそれぞれが確かめることができると前提される。
(2')わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。
(3')完全に埋めることができない自己のイメージと世界のイメージの間の間隙がわたしたちのそれぞれに現れると前提される。
(4')「わたしはかけがえのない存在である」「わたしたちは互いに入れ替わることができない」というような入れ替わりの不能さをわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。

つまり、(1)-(4)を感じたり考えたりするのは、わたしだけだなく、わたしたちのそれぞれである。わたしたち人間のすべてがそう感じたり考えたりしている。(1)-(4)は心的現象として現れるものに一見したところ不可避的な属性によっているに過ぎない。
  さらに、(1)-(4)は、心的現象として現れるものに一見したところ不可避的な属性によるだけでなく神経系の状況にもよっている。地球上の複数の個体の複数の神経系が錯綜することは滅多にない。その限りにおいて、(1)は真実である。もしも神経系が錯綜するようなことがあれば、次のことが起こりえる。(1)は真実ではなくなり、(2)(3)は変容する。そして結局、(4)は錯覚であることが明らかになる。実際、二つの人間の個体(個人)となるはずの身体が癒合し末梢神経が錯綜し、体性感覚で現れる彼らの皮膚の痛みが彼らの両方に現れたということはあった。もしも、複数の個体に属するはずの複数の中枢神経系が錯綜すれば、「あなたに視覚で現れるものがわたしに現れ、あなたに聴覚で現れるものがわたしに現れ、あなたにイメージとして現れるものがわたしに現れ、あなたに思考で現れるものがわたしに現れ…」のようなことが起こることがあると前提される。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができない」というのは心的現象として現れるものと神経系の属性と状況によっているに過ぎず、絶対的な真理ではない。
  それらのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへ不安は減退する。
  そもそも、天国や地獄に行く、神、精神…などこの世界を超えた永遠に見えるものと一体化する…など最初から不可能でしかも望んでもいないことを信じないほうがよい。それらは不可能であるだけでなく、わたしたちはそれらを望んでもいない。例えば、天国で永遠に幸福であるなど、わたしたちは退屈で耐えられず、「殺してくれ」と叫ぶだろう。また、神と一体化するなど窮屈で耐えられず、神の中で反乱を起こすだろう。
  さらに、わたしたちは死後、霊魂や精神になってその後で互いに入れ替わるというようなことも考えないほうがよい。霊魂や精神になって別の系の別の惑星の動物に生まれ変わるとして、それらが光速で移動するとしても、光年単位の時間がかかる。わたしたちはそんな宇宙の中での護送に耐えられるだろうか。それは一種の拷問だろう。わたしたちはここでも「殺してくれ」と叫ぶだろう。
  そのような移動の空間と時間に対する不安や恐怖もあるが、自己がやがて死ぬことへの不安はそもそも、自己が死んだ後に無限の空間と時間があることへの不安を含む。
  だが、

(5)イメージとして現れるもの、快不快の感覚として現れるもの…などを含めて心的現象として現れるものはすべて、神経系とその機能のいくつかの部分から生じると前提される。

(5)をもう少し詳しく見てみよう。
  何より、わたしたちは既に「脳死」を死と認めている。脳死とは、個体に心的現象として現れるものがなんら現れないほどに個体の神経系とその機能のいくつかの部分が障害されることである。脳死を死と認めた時点で、すべての心的現象として現れるものが神経系とその機能のいくつかの部分から生じることをわたしたちは認めていたのである。
  神経系は身体に含まれ、身体は物質に含まれ、物質はものそのものに含まれる。現実の世界はものそのものと空間と時間と心的現象として現れるものから構成され、それら以外のものは存在しない。だから、心的現象として現れるものとものそもものの間には何ものも介在しない。
  さらに、既に述べたとおり、

(6)わたしたちのそれぞれに現れるものの中では、何も現れない時間は無であり、何かが現れた第一の時間から再び何かが現れる第三の時間まで何も現れない第二の時間を一瞬で跳躍し、第二の時間は無であると前提され、第一の時間と第三の時間は連続して現れると前提される。

だから、私たちは移動の空間と時間への不安や恐怖や自己が死んだ後に無限の時間と空間があることへの不安におののく必要はない。
  それらのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は減退する。結局、(1')(2')(3')(4')(5)(6)を知ることが自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる決定的方法である。結局、「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」というのは正しい。
  上記の説明は難しかったかもしれない。「生まれかわる」、「入れ替わる」、「~になる」…などの言葉を使って、比喩的に説明してみる。
  まず、時間的距離について、例えば、わたしが死んだ十億年後に太陽系の別の惑星で心的現象として現れるものが生じる別の動物が生まれて生きるとき、わたしの身体とその動物の身体の間には十億年の時間的距離がある。それに対して、心的現象として現れるものの中では、現れるものが存在しない時間は一瞬でしかない。それは熟睡して覚醒するようなものである。数時間の熟睡も十億年以上の熟睡も全く同じである。より正確に言うと、睡眠は夢と浅睡眠を含むから、現れるものが存在しない時間は睡眠以上に一瞬である。例えば、太陽に照らされた地球の光景が消滅するやいなや、少しばかり老いた太陽に照らされるその惑星の光景が現れている。
  次に空間的距離について、ものそのものの中では、いくつかの群のわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される身体の間には空間的距離がある。例えば、地球の正反対にいる人たちの身体の間にはその直径の空間的距離があり、動物が生まれて生きる天体の間には何光年もの空間的距離がありえる。だが、もし何かがそれらの間を移動する必要があるとしても、その移動時間は、時間についての上のパラグラフで説明されたとおり一瞬である。もし、それが霊魂や精神などの意識をもつものなら、問題が生じるが、それらの存在も以前に否定された。例えば、わたしが夜、太陽を除くいくつかの星を見るとき、それらの星のいくつかのいくつかの惑星の視覚をもつ動物が太陽を含みえる星を見ている。わたしが突然、死んだとすれば、わたしは太陽を含みえるいくつかの星を見ている。
  それらのように、心的現象として現れるものの中ではものそのものの中で存在するような空間的時間的距離は存在しない。簡単に言って、あなたとわたしが何光年離れていようが何センチメートル離れていようが、わたしが死ぬや否や、わたしはあなたになり、あなたが死ぬや否やあなたはわたしになる。
  以下のような疑問をもつ人もいるだろう。人間が人間に生まれ変わる保証はないと。わたしたちは感覚をもつだけでは満足しない。記憶、感情、欲求、自我、思考…などをもちたい、人間でありたい。だが、感覚をもつ動物とそれらの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、感覚をもつ動物が前述のような機能あるいはそれら以上の機能をもつ人間と同様のあるいは人間以上の動物に必ず進化する。感覚だけをもつ動物においては精神的苦痛は希薄であり、そのような動物である時間は夢を見ているまたは浅睡眠にある時間のようなものである。だから、動物が生まれて死んで生まれて…と繰り返すことは、それらが記憶と個性の喪失だけでなく夢または浅睡眠を繰り返しながら永遠に生きることに等しい。
  それらのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は減退する。それらのことを知ることがその不安を減退させる決定的方法である。その不安を超えて死んでいった人々はそれらを日常で直感的に知っていたと考えられる。そのように、宗教によらずに、つまり、現実の世界を超越するものを想定せずにその不安を超越することは可能である。
  比喩的ではあるが、それらのことを表すのに「(再び)生まれて(再び)生きること」「(地球を超える)生と死の限りない繰り返し」「(わたしたちが)(互いに)入れ替わること」「~になること」のような言葉を用いることにする。

甘受する必要があるのはこの私の特定の自己と記憶と個性と若干の人間性の喪失だけである

  前節で説明したようにして、自己がやがて死ぬことへの不安を減退させるとき、わたしたちたちが甘受する必要があるのは私の特定の自己と記憶と個性と若干の人間性の喪失だけであることが分かってくる。わたしたちはそれ以外のものは乗り越えられる。
  私の特定の自己について、その喪失を恐れよう、不安に思おう。何より、わたしたちのそれぞれはこの人生において、苦痛を減らし、快楽を増大または維持して、健康で長生きしたいと思っている。家族や友人もそうあって欲しい。また、他人や社会から生き方や死に方を押しつけられることなく、思いのままに生きたい、死にたい、家族や友と何でも語り合いたい。それらが最もよくある日常的な欲求だろう。そのような欲求を満たすことが結局は自由権の擁護と社会権の保障である。
  記憶と個性について、個体において後天的に形成される知性、知識、意識的機能の能力、感情、欲求などの精神的情動の傾向と自我の傾向を個体の「個性」と呼べる。それらの詳細は『感覚とイメージの想起』『自我と自我の傾向』で説明される。
  対人関係においては、自己の死は自己と他人の記憶の完全な喪失であり、過去に関係のあったすべての個人との完全な別れである。また、他人の死はその人との完全な別れである。限りない生と死の繰り返しの中ではわたしたちのそれぞれは限りない個人と出会う。だが、死後はわたしたちのそれぞれはあれやこれやの特定の個人と出会うことは決してない。愛している人がいないなら、未知の個人との出会いを期待するだろう。愛する人がいるなら、それらの人々との別れは苦痛だろう。死んだ人間は他の人間に生まれ変わって楽しく生きているかもしれない。だが、残された者にとっては、完全な離別は苦痛である。故人との離別を率直に悲しもう。
  人間性について、人間社会において、個人は個人の記憶と個性を話し言葉、書き言葉、ペンと紙、印刷物、コンピューター、インターネット…などの「媒介」によって伝える。その伝えられたものによってまた、個人は記憶と個性を更新し、また、伝える。それらが繰り返されるうちに社会の中で複雑な観念、思想、人文科学、社会科学、科学技術…などが形成され再形成される。そのようものを「(広義の)人間性」と呼べるだろう。人間が絶滅するとき、人間性も消失する。人間性に対する期待はルネッサンスと第一次世界大戦前夜の間のいずれかの時代にピークがあっただっただろう。それらの時代なら人間性の消失は惜しまれただろう。それ以降は科学技術が主流になってきた。今後は人工知能やロボットが人間性に取って代わるというのは妄想とは言い切れない。そのような状況では人間性に対する期待は減退していくだろう。だから、生存の保障のために人間性に訴えることには効果がほとんどないだろう。そもそもこれらの著作は別のものに訴えている。


人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させ地球や太陽の激変のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的

  もちろん、人間を含む動物は快楽だけでなく不快をもつ。「不快」という言葉より「苦痛」という言葉のほうが日常でよく使われている。わたしたち人間は疼痛、暑さ、寒さ…動悸、息苦しさ…飢え、渇き…などの身体的苦痛だけでなく恐怖、不安、悲哀、寂しさ…などの精神的苦痛ももつ。快楽より苦痛のほうが多いと思う人は多く、苦痛ばかりだと思う人もいる。
  苦痛のいくつかは人間を含む動物の遺伝子と個体と集団と種が生存し進化するために必要である。例えば、皮膚の痛みは外傷が深部の重要な臓器に至り致命的となることを防ぎ、遺伝子と個人や個体の生存をより確実にする。また、不安、恐怖…などの精神的苦痛は危険を事前に察知させ回避させ、遺伝子と個人や個体の生存をより確実にする。また、性的欲動の不満は遺伝子と集団と種の生存をより確実にする。また、動物における生存競争は苦痛を伴うが、その苦痛は人間を含む動物の種が進化し生存するために必要である。
  それに対して、人間は遺伝子や個人や集団や種の生存のためにも進化のためにも、個人の自由のためにも必要のない苦痛を生じる。仮に独裁制における弾圧、戦争、全体破壊手段の使用、刑罰…などが必要だとしても、それらから生じる執拗な苦痛は必要ない。また、それらのいくつかは何百万人の大規模な苦痛を生じる。そのように人間は不必要で執拗で大規模な苦痛を生じる。そこで、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるという欲求と目的が生じてくる。
  もちろん、わたしたちのそれぞれは地球だけでなく限りない空間と時間をもつ宇宙で生と死の繰り返しつつ生きるのであって、地球で生まれて生きるのはごく稀である。だが、例え稀であっても、人間が生じる不必要で執拗な苦痛を誰も味わいたくはないだろう。
  自己がやがて死ぬことへの不安は人間がもつ最強の苦痛である。その苦痛は前節で説明したようにして減退する。だが、その不安が減退するやいなや、まさしく限りない生と死の繰り返しの中で人間が生じる不必要で執拗な苦痛の繰り返しがあることをわたしたちは知る。それを知ることも不安、恐怖のような強烈な苦痛を生じる。そのような苦痛はやがて死ぬことへの不安に劣らないかもしれない。わたしたちにできることは人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させることだけである。
  また、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛の中では、それを消滅させるために、現実の世界から超越したいとも思ってしまう。だが、現実の世界を超越したものは存在しない。何より、このような苦痛の中では、「現実の世界も現実を超越した世界も何も要らない。無になりたい」と思ってしまう。だが、限りない生と死の繰り返しがあるだけであり、現実世界を超越することも、無になることも、不可能である。そのような繰り返しは人間を含む動物の宿命である。とすれば、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるしかない。例えば、奴隷制では、主人が奴隷に生まれることはあるのだから、奴隷だけでなく主人も奴隷制を廃止しておく必要があり、専制では、迫害するものが迫害される人々に生まれることはあるのだから、被迫害者だけでなく迫害者も専制を廃止しておく必要がある。そもそも、人間が動物に生まれることはあるのだから、人間が生じるが人間にとって不可欠でない動物の苦痛をゼロにしておく必要がある。
  人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をこの地球においてできる限り全般的に減退させることができたとして、前述の生と死の繰り返しの中で生まれかわるとすれば、人間は何を望むだろうか。多くの人間が地球で人間に生まれかわりたいと思うだろう。その願望は一概に不自然なものではない。人間は自己のイメージをもち、記憶、知覚、連想、感情、欲求、自我、思考をもっている。それらをもつことの喜びはもったことがあるものにしか分からない。それは人間が野生の動物の喜びを分からないのと同じである。だから、その願望は一概に不自然なものではない。
  もちろん、人間は人間以外の動物にも生まれ変わる。それどころか地球外の動物にも生まれ変わる。だが、人間が長く生存するほど、人間に生まれ変わる可能性はわずかにでも大きくなる。だからその願望は一概に非現実的な願望ではない。
  また、生物は進化する。人間も進化する。人間が進化することに抵抗する人間はあまりいないだろう。
  また、その願望は以下の理由によって一概に傲慢ではない。人間が生存するためには、人間は環境を保全し資源を保全しつつ有効利用しなければならない。そのような環境と資源は多様な動物、植物、微生物を含む。そのように人間の生存は多様な動物、植物、微生物の生存を伴う。その願望を実現するためにはそれらの生存を保障する必要がある。
  だが、人間を含めていかなるものも地球や太陽の激変と自然な終焉をとめることはできない。また、人間が地球外の宇宙で生き延びることができるとしても、それはほんの一部の人間に過ぎない。また、前述のとおり、それらの人間は地球の人間と異なる方向に進化するのであって、それを地球の人間や生物の生存と見なすことはできない。
  以上のことから、特に、ほとんどの人間が人間に生まれ変わりたいと思っており、人間が長く生存するほど、人間に生まれ変わる可能性はわずかにでも大きくなることから、地球や太陽の激変のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的が現れてくる。
  だが、そのような欲求と目的は、前述の人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛を減退させるという欲求と目的があって初めて生じえる欲求と目的である。つまり、それらの欲求と目的は不可分である。結局、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させ地球や太陽の激変と自然な終焉のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的が現れてくる。
  その欲求・目的が満たされ実現する場は地球とその周辺に限られている。だから、その欲求・目的を満たし実現することは全く不可能なわけではない。だから、その欲求と目的を「(世代を超えて実現可能な)究極の欲求(・目的)」とも呼べる。
  そのような欲求は、主として限りない生と死の繰り返しの中でわたしたちのそれぞれが永遠に苦しむことへの不安という苦痛を減じようとする個人の情動と自我から生じている。だから、そのような欲求を「究極のエゴイズム」とも呼べる。
  究極の欲求は、現在の市民の自我と情動に根差しているから、その欲求は権利にもなりえ、「全般的生存権」とも呼べる。だが、全体破壊手段の使用が地上の人間を絶滅させるとしてみよう。それは、数十億人、数百億人の生命、身体の自由という自由権の侵害でもあり、それだけの人間の最低限度の生活の維持という社会権の保障を怠っていることでもある。そもそも、地球や太陽の激変のときまで人間または進化した人間が生存し、それらの苦痛を減退させるためには、何百億、何千億人の人間の最低限度の生活と健康を維持し、世界大戦、虐殺…などを防ぐ必要がある。前者は社会権の保障に含まれ、後者は自由権の擁護に含まれる。だから、究極の欲求は自由権と社会権に既に含まれており、全般的生存権を確立しなければ、究極の欲求は満たされないということは全くない。
  苦痛に対して、快楽はわたしたちのそれぞれ、つまり、個人が自由に追求すればよく、自由に追求する必要がある。何故なら、他から強制された快楽は快楽ではないからである。また、快楽を自由に追求すること自体が快楽であり、自由そのものが快楽だからである。また、従来の宗教や倫理に縛られていたら、そのような欲求と目的に到達できなかっただろう。思想と言論の自由によってこそ、そのような欲求と目的に到達できる。
  以上のように従来の宗教や倫理がなくても、人間の情動と自我と自由だけに基づいて、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させ地球や太陽の激変と自然な終焉のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的が生じることは可能である。

  では、いかにしてその欲求と目的を実現するか。『生存と自由』の『全体破壊手段』の章から読み始めて頂きたい。

NPO法人わたしたちの生存ネットからのお知らせ―宗教を超えようとする人間たちの墓

  以上が日本語訳です。以下はNPO法人わたしたちの生存ネットからのお知らせです。
  NPO法人わたしたちの生存ネットはこの著作に基づく「宗教を超えようとする人間たちの墓」を建てることを計画しています。興味のある方はメールをしてください。

参考文献

生存と自由

生存と自由の詳細

国家権力を自由権を保障する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること

感覚とイメージの想起

自我と自我の傾向

悪循環に陥る傾向への直面

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

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