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小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"
NPО法人 わたしたちの生存ネット 編著
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人種や性
私と同僚XはA国のグループGの潜伏所に帰った。WはA国に初めて上陸し、グループGの潜伏所に初めて潜った。Wは世界のどの政府にも顔が割れていない。また、A国のスラム街には多様な人種がおり、Wが街を歩いても不自然ではない。そこで、Wには地下の潜伏所ではなくスラム街に潜入してもらうことになった。スラム街のいつもの飲食店や居酒屋に、私はWを連れて行った。居酒屋で例のJがWを見て「よく日焼けしているね」と言う。私がそれをWに通訳するまでもなく、WはJが言ったことを即座に理解した。Wはしばらくの間、Jの知性と知識を推し量っているように見えた。その上で笑って「両親も祖父母もよく日焼けしていたよ」とA国語で応えた。Jはしばらく考えて「日焼けは遺伝するのか」と納得していた。私は笑った。「Wは黒人だ」「日焼けが遺伝するわけがないだろう」だが、それらを説明するのも無粋だと思ったので言わなかった。WとJは兄弟のように仲良くなった。
世界で人種差別や性差別は衰退しつつあった。それは環境の悪化、資源の消耗、人口問題、全体破壊手段の使用と世界大戦の危機、政治的経済的権力の独裁と独占…などの前では、人種や性の区別が問題にならなかったからだと思う。例えば、A国のA1大学やグループGやスラム街にしても、B国のB1大学やグループHやスラム街にしても、二千年より前には区別されていなかった人種が居た。また、二千年前後には想像もできなかった性的マイノリティーが居た。また、宗教は全般的に衰退していたが、二千年より前には想像もできなかった宗教が点在していた。
私は後日、Jに「日焼け」ではないことを説明してみた。すると「そんなこと分かってらあ。日焼けは冗談で言ったんだよ」と帰ってきた。Jが本当に最初から冗談で言っていたのか、後になって負け惜しみでそう言ったのか、は分からない。いずれにしても以下のことは言える。人種差別的な発言ではなかった。彼らの友情は変わらなかった。JもWも馬鹿ではなく、知性と知識のある人だった。それを私は初めから分かっていた。Wはスラム街に溶け込み、スラム街のアパートに住み、飲食店でアルバイトを始めた。例の居酒屋にはよく来た。潜伏所にはときに帰って来た。ある日、潜伏所に帰って来て「革命後はここ(スラム街)で農業をするよ」とWは言っていた。「F国に帰って農業をやらないのか?」と私が聞くと、「ここ(スラム街)が気に入った」とWは言っていた。「なんと超国家的な(Supranational)」と私は冗談ではなく感動した。私が感動したのは、気に入りさえすれば、F国でもB国でもA国でもスラム街でも何でもよいという点である。私たちも、国家を超えてこういう気持ちをもたなければならないと思った。以下も補足しておく。Wは、B国のB1大学の生物学部門に留学していた。留学して少し研究しただけで、Wの論文は世界的な学術誌に掲載されていた。Wが、農業をやりながら、生物資源を開発し、飢饉や食糧難を克服しても、それは奇跡ではないと思った。
基本的に個人は、人種や性で、関係する人間を選んでいるのではない。人間の気質や人格や人間性を見て選んで関係するか、感情や欲求や欲動をによって関係することになるか、状況によって関係することになるかである。人間が人種や性で関係する人間を選ぶのは、社会的な慣習による。そして、政治的経済的権力がその社会的慣習を操作し利用することがある。
世論操作
スラム街にゴミ拾いのNPO法人があった。市民のゴミのポイ捨てを禁止し、ゴミを持ち帰らせたり、ゴミ拾いをさせることは、政治的経済的権力者には経費節減になる。権力者が得をする。つまり、権力者は市民の善意を利用している。また、市民のエネルギーが、反政府運動や反核運動に向かうよりは、自然の保全に向かうほうが、政治的経済的権力者にとって都合がよく無難である。
例の居酒屋に、例の見せかけの反政府グループGFの女性スタッフが来ていた。ゴミ拾いのNPO法人の女性スタッフも来ていた。私が気づいたとき、彼女らは既に議論をしていた。Jもいた。GFのスタッフは当然、私を知らない。GFのスタッフは「市民が自然を保全するより、政治を変えるほうが先だろう」と言う。ゴミ拾いのスタッフは「政治をどうのこうの言うより、市民が身近な所で自然を保全していくほうが先だろう」と言う。GFのスタッフは「どうでもよいようなゴミ拾いなんてやってんなよ」と言う。ゴミ拾いのスタッフは「何もできないくせに、偉そうなこと言うなよ」と言う。GFのスタッフは「反政府運動や反核運動をする者を、市民があざ笑うよう、権力者が操作しているのが分からないの?」と言う。よく分析できていると思った。
この頃、思想や言論は、「弾圧」されるだけでなく、「操作」されていた。一千年末には「世論操作」が問題になったが、その操作が市民の心情を利用するものになってきた。例えば、インターネットで政府のスタッフが、一般市民の振りをして政府の政策についての議論に入ってくる。そして、上にあったように「何もできないくせに、偉そうなこと言うなよ」とか「難しい話はやめてくれ」とか、政府を批判する者を嘲笑う。そのようにして、市民の政治的議論を忌避する傾向と政治に対する諦念、が助長される。すると権力者にとって都合がよい。だからといって私たちは、市民に「政治を議論しよう。諦めるな」と言っているのでは全くない。私たちは、権力者が市民の思考や情動を操作したり誘導したり利用していることを暴露し批判している。
だが、「どうでもよいようなゴミ拾いなんてやってんなよ」というようなことは言わないほうがよい。そんなことを言うと、反政府グループが市民の不必要な反感をかう恐れがある。私はそれ以上、議論が激しくならないことを願った。そんなとき、Jが彼女らの間に入ってくれた。それによって彼女らは、団結してJに当たり始めた。次いで、私は思わずGFスタッフにウインクしてしまった。今度はGFスタッフが、それを誤解して、私に当たり始めた。それらによって事なきをえた。
孤独
Jには仕事上の「師匠」のような人がいた。師匠は、Jだけでなく、港湾の労働者の間で広く慕われていた。その師匠には妻子がいるらしい。だが、長らく、離婚しているのか別居しているのか分からないような状態だった。師匠は、仕事を引退し、独り者だった。Jは一週間に一回はその師匠を訪れ、居酒屋に連れて来ていた。私もその師匠と知り合いになった。職人気質。居酒屋に来るとよくしゃべる。高齢者の一人暮らしではこうなるのだろう。師匠はしばらく飲むと、いつも「若い頃はよく遊んだ。浮気もした。賭博もした。借金もした」と言う。さらに飲むと、少し大人しくなって「老後、一人になると寂しい」と言い、若い者には「老後のために、家族を大事にしろよ」と言う。女性客も聞いていて「今さら、遅いわ」と言う。私は「もう何十年も前のことを言っても仕方がない。これから独り者がどうやって生きるかだ」と言う。Jが「独り者どうしが温め合うしかない」と言うと。独身の女性客が「確かにそれしかないね…」と言う。それが本音だと思った。そういうときは、私も独り者になりきっていた。あるいは、老後は独り者になるに決まっていると思っていた。その頃には師匠は、いつもカウンターで眠っていた。
ある夕、Jが居酒屋に急いで来た。「師匠が、飯が喉を通らなくなって、入院した」と言う。「(スラム街の)あの病院でだいじょうぶだろうか。外の大きな病院に移ったほうがいいんじゃないか」と言う。
私もJに付いて師匠の面会に行った。師匠は声がかすれている。鼻からチューブが入っている。点滴されている。そんなとき、初老の女性と三十代の女性がやってきた。師匠の妻子または元妻子のようだ。三十代の女性は私とJを見て「あんたら誰」と不審そうに見る。師匠は初老の女性を見て、懐かしそうにしている。Jはその女性に何か言おうとする。私はJの手を引いて病室を出、病院をあとにした。私が「あれでよかったじゃないか」とJに言うと。Jは「だといいんだが…」と心配そうだった。
数日後、Jが「師匠は公的健康保険に入ってなかった。このままでは入院費は全額自己負担になる。役所に保険の手続きに行くと、家族しか手続きできないと言われた。家族に連絡してみた。何度、電話しても、家族は電話に出ない」と言う。さらに、Jは続けた。「師匠の状態は全然良くならない。外の大病院に転院したほうがいい」と言う。
私はJに付いて病院へ行った。Jと私は師匠の主治医に面会を申し込んだ。主治医は「確かに専門の病院に転院したほうがいい。食道癌の疑いがある」と言う。主治医は入院費と保険の事情を知らなかった。Jと私は事務長に面会を申し込んだ。事務長は「溜まっている入院費を即刻、払ってもらわないと、他院に紹介することができない」と言う。Jは貯金をはたいて、入院費を用意して来て、支払った。
Jと私は師匠の病室に行った。病院のスタッフが転院の準備をしていた。師匠は細った声でJに「すまない」という。Jは「いいんだよ」と言う。そんなとき、ようやくあの初老の女性がやってきた。公的健康保険の手続きをしてきたと言う。Jには先ほど支払った分が返済された。保険が効いた後の自己負担分はその女性が支払った。女性は師匠に「これが最後ですよ」と言う。師匠は天井を見つめて黙っていた。
後日、Jは「入院後、最初に妻子が来たのは遺産目当てだった。その後、師匠は保険にも加入しておらず、入院費も払えないほどだ。ということを妻子は知った。だから、妻子は法的義務だけ果たして、去って行った」と言う。Jは続ける。「若くて仕事があるうちは独り身もいいもんだ。だけど、年取ってからは…」と言葉が詰まる。私もそうなるかもしれない。Jは「寂しいんだろうな…独り身は」と言って、黙る。「確かに…だから、老後は独り者どうしで助け合う」と私は言いかけた。Jは「寂しさは、独り者どうしが集まることでなんとかしのげる」と言う。さらに、Jは「法的手続きで、家族がどうしてもしなければならないことはある。そのときは家族に来てもらわないと…」と言っていた。つまり、Jは私の考えの先を行っていたのである。
師匠は専門の病院に転院した。転院先で、食道癌だということが分かった。比較的早期発見、手術となり、事なきを得た。退院後、師匠は依然、Jに連れられて、一週間に一回は居酒屋に来る。酒はきっぱりやめた。食事を飲み込むときは注意している。師匠はそうしながら「独り身で寂しいときは、死んだほうがいいと思っていた。癌を生き延びて…今…本当に生きていてよかったと思う。Jも居てくれるし…飯が旨い。飯が旨い…これだけでも人生、生きる値打ちがある」と言っていた。「飯が旨い…これだけでも人生、生きる値打ちがある」これは独り者に限らず、人間の誰にも言えることだと思った。食べることは生存の手段であるだけでなく、最後まで人間の楽しみだ、と思った。例のシソ科植物EPもおかずの中に入っており、ささやかながら貢献している。
ここで、滅多に口を出さない居酒屋の主人が、舌足らずながら次のようなことを言っていた。「人間にとって一番、切実なのは孤独だ。それを凌ぐには、寂しい者どうしが集まるしかない。居酒屋もその集いのためにあると思う。だが、寂しい者は、店に居座ってあまりオーダーしない。儲けにならない。だから、昔はそんな客を嫌がっていた。だが、自分も老いてきて…寂しい者の気持ちがよく分かるようになった。だから、長居してもらってかまわない。だけど…一人、一時間に一品は、オーダーしてちょうだい」と、主人は、師匠とJと私に言っていた。
独創性
例の売春婦Kは、行方不明のままである。多分、M将軍に消されたのだと思う。Kには小学校高学年の息子が一人いた。少年はKの失踪後、集団生活を嫌うようになった。小学校に登校していれば、給食を食べられた。施設に入れば、それに加えて二食も食べられた。だが、少年は登校も入所も嫌がった。Kと住んでいたアパートからはまだ追い出されずに一人で居る。どうやって生きているのか。近所の人が「Kの息子は変な魚を食べている。そのうちお腹を壊すだろう」と言う。私とWは少年のアパートに行ってみた。少年は痩せてもおらず元気だ。皿に食べ物のかすが残っている。確かに小さな魚だ。私は部屋を見回した。窓際に大きな水槽が二つあって、小さな白い魚がいっぱい泳いでいた。私は思わず声を上げて笑った。「この魚を食べているのか」と。少年も笑って「旨いよ」と言う。私とWは納得した。
その魚は二千年前後は淡水の観賞魚だった。純白で見方によっては綺麗だが、地味で観賞魚としての人気が無くなっていた。その魚は淡水性、植物食で、緑藻を食べて生育する。アオミドロさえ食い尽くす。植物食だから、水を汚さない。卵をお腹の中で孵して産み落とす。そして、重要なことである。魚類の多くは自分の子供も食ってしまう。それに対して、この魚は完全な植物食で、子供を食べない。それらのことから、水槽を窓際においておけば、緑藻が限りなく増え、それを食べてその魚は限りなく増える。魚の排泄物は緑藻の肥料になる。つまり、それらがほとんど生態系を構成している。問題は水中の酸素濃度だが、少年は棒で水をかき混ぜて空気を混ぜていた。エアレーション(ブクブク)をしなくてもそれで十分なようだった。そして、最大の問題は人間が食えるかである。
少年は、水洗いし、水を切って、酢に漬けて食べていた。それで食中毒を起こしていない。私とWはそれで食べてみた。「まずくない」私もWもこれは食糧資源として行けると思った。
結局、魚と水槽と少年はWのアパートに移った。Wと少年はその魚の酢漬けの商品化に着手した。まず、水槽を増やし、エアレーション(ブクブク)をした。これで少年は棒で混ぜなくてよくなった。それによって魚がさらに高密度になるまで増殖した。また、水揚げ後、念のために魚をエタノール噴霧で消毒した。それによって酢漬け以外のレシピも可能になった。例えば、乾燥させて日持ちさせ、ふりかけなどにすることも可能になった。
その少年について。小学校低学年から人のやらないことばかりをやっていたそうだ。私は少年に「大人になってもそれで通せるかな。思春期を過ぎても、通せたら、一生、行ける」と言ってみた。その予言は的中した。どういう形で的中するかは、後のお楽しみ。人間はときに人のやらないことをやってみる必要がある。特に生物資源開発においてその必要がある。それを少年がやって見本を見せてくれた。遺伝子操作などしなくても、生物資源開発と生産と食糧難や飢饉の克服は、可能であることの見本を見せてくれた。
人のやらないことばかりやっていると、つまり、独創ばかりだと生きづらい。独創が当たればよいが、当たらないことのほうがはるかに多い。歴史上、独創ばかりの変人のほとんどは、苦労して成功せずに死んでいった。家族も友達もいないか、いても疎んじられただろう。ごく一部が成功して歴史に残った。それは氷山の一角に過ぎない。氷山の下の大部分に私は敬意を表したい。いや、私も氷山の下の大部分の一人になるだろう。だが、それも私の自由でやったことだ。だから、悔いはない。
ところで、少年は学校に登校するようになった。もっと語学や化学や生物学を勉強する必要性を感じたようだ。これほど勉強の必要性を感じた子供はいないと思う。Kの消息はまだ分からない。生きていれば、息子のことをどう思うだろうか。
不変遺伝子手段以外の生物または手段によって人間の欲求を最大限に満たすことは可能である
行きつけの居酒屋の近くに六十代の母と四十代の息子が住んでいた。母親は息子を女手一つで育て上げた。息子は肉体作業を実直に続け、今は母を養っていた。母はAK癌を告知され、転移も告げられていた。二千〇〇年、多くの癌は克服されていたが、母親のAK癌は化学療法によって余命を延長するしかなかった。それらは健康保険で賄えた。だが、いつの時代でも保険が効かない「特効薬」と称する薬は出る。そのような特効薬の値段はワンクールで通常のサラリーマンの月収以上だった。息子は酒も食事も切り詰めてカネを貯め、特効薬を購入しようとした。居酒屋にもあまり来なくなっていた。
ある日、息子が居酒屋にやってきた。私もJもWも居た。「外のオフィス街まで行って買ってきた」と保冷剤に入ったガラス瓶をJとWと私に見せる。「8回分ある。いつもの主治医に渡して母親に注射してもらう」と言う。私は、それを手に取って保冷剤からちょっと出して、ラベルを見て、息子に返した。「こりゃ駄目だ」と思った。二千年代初めに話題になったが、効果はまだ、実証されていない薬剤だ。それだけの間、実証されていないのだから、多分、効果はないだろう。だが、言わなかった。こういう場合、息子の「できるだけのことを母親にした」という思いが重要だ。その思いを壊してはいけない。Jは「高かっただろう。今夜のお前の分は奢るぜ」と言う。Wも「俺も奢るよ」と言う。店主は「今日は代金、いらねえよ」と言う。そんなとき、めったに来ない制服の現役警察官が入って来た。息子に向かって「それをどこで手に入れた」と尋ねる。息子は「オフィス街で買った」と領収書を見せる。警察官は瓶を取り上げた。息子は取り返そうとした。JとWは警察官の腕を掴もうとする。そのとき、瓶が保冷剤から抜け出して宙に舞った。瓶はガシャンと床に落ち、割れた。中のわずかな液体はコンクリートに浸み込んでいた。警察官はヤバいと思ったのか、すぐに去って行った。息子は床に崩れて泣いていた。JとWはしゃがんで息子の背中をさすっていた。それが数十分続いた。
私は一時的に居酒屋を出た。その往復の道で考えた。警察はもはやスラム街を相手にせず巡回もしない。何故、あの警察官はやって来たのだろう。例の「あぶり出し」ではなさそうだ。あの警察官もあの「特効薬」を狙い、あの息子を外から尾行していたのだと思った。盗んで転売…それもない。もしかしてあの警察官にもAK癌の家族がいたのか…それならかわいそうなやつだ…と思った。私はあの居酒屋にも例のシソ科植物EPを卸していたが、この日は品切れになっていた。だから、私は潜伏所に戻って、EPを数把取って、居酒屋に戻った。「こっちのほうが効くよ。母親に食べさせてあげてよ」と息子に差し出した。実際、EPには抗癌作用があることが実証されている物質、が含まれていた。しかもその物質は経口で消化管から吸収される。注射の必要がない。あの「特効薬」よりはこっちのほうがよっぽど信頼できた。ただし、加熱するとその物質は分解される。また、その物質のEPからの単離はまだできていない。この時点では、その物質は他の希少な植物から単離できるだけだった。EPが抗癌剤になるには毎日、生で数把食べる必要がある。EPは生で食べても旨いのだが、数把を生で食べるのはたいへんだ。例えば、レタスを数株、食べるようなものだ。だから、まだワインの原料と野菜としてしか実用化していなかった。私はそれを「何か月か分、あげるよ」と言った。Jが「毎日、運んでやるよ」と言う。Wが「畑まで毎日、採りに行ってあげるよ」と言う。
息子もなんとか、立ち上がって、JとWに囲まれて座った。私はWの隣で、少しでも楽に毎日、数把、生で食べる方法を考えた。店の店主もEPを煮物や炒め物に入れるだけだった。私は店主に「生で作ってみてよ」と頼んだ。店主はその数把を全部、洗って刻んで調味料をかけてサラダ風に仕上げた。店主の腕前で結構、食べられそうだ。とりあえずそれで行こう。息子は店主が作ってくれたものをプラスチック容器に入れて持って帰った。母親もたいへんだと思った。採って運んでサラダ風にするのは息子やJやWがやるだろう。あるいは息子が栽培からするだろう。だが、毎日、生で数把、食べる母親は大変だ。いや、息子を思いやって食べるだろう。
人間の長生きしたい、家族や恋人や友人に長生きして欲しいという願いは切実である。不変遺伝子手段以外の生物または手段によって、人間の欲求を最大限に満たすことは可能だと思った。しかも、安価で健康保険が効く形でそうすることは可能だと思った。これとあのKの息子の食糧資源開発を合わせて、遺伝子操作などしなくても、人間を含む生物の生存は可能だと思った。実際、後にWとKの息子がその可能性を実現することになる。
最も深い人間関係
数日後、息子が家でEPを栽培したいと言う。母親に食べさせるのは毎日、数把であり、それだけの量を自宅で栽培するとなったら大変だ。窓際でというわけにいかない。日曜日に私とJとWが、温室の設置と植え付けの手伝いに行くことになった。息子の家は、港の見える高台にある。だが、海から距離はあり、潮風はあまり来ないだろう。だから、EPは育つと思った。息子と母親の部屋は一階にあり庭付きだった。庭にビニールハウスを設置して栽培する計画だ。私とWが土とEPの株とプランターにするプラスチック容器を運んだ。息子とJがビニールと骨組みの鉄枠を入手して運んだ。ビニールハウスの設置と株の植え付けが終わると、母親が手料理を出してくれた。この家には息子が生まれてからずっと母と二人で住んでいるという。料理はこの二人だけの家庭の歴史を感じるもので、よそでは味わえない旨みがあった。
母親は「息子に嫁が来てくれたらよかったんだけど…もう無理だろう。自分の世話をさせてしまって…すまないと思う」と語る。息子は「そんな話をしなくてもいいだろう」と言う。Jが「息子さんはまだまだこれからですよ」と言う。私は家の中を見回した。息子の子供の頃の写真や表彰状などが壁に飾られている。丁寧に飾られているが、さすがに変色している。博物館の展示物より歴史を感じる。
母親が「自分はまだ元気だからいいけど…」と言う。JやWが「私たちもいますよ」と言う。私は「私たちも老いていく…」と言いかけたが、なんとか止めた。母から生まれて、育てられて、仕事をして、母を養って、共に老いていく…親子の関係より深くて重いものはないと思った。誰にでも親がいるのだが、よその家庭の親子関係を見て、初めてそれが分る。特に親子が共に老いていくとき、それが身に染みる。
日が沈む頃、私とJとWと息子でいつもの居酒屋に飲みに行った。親子の関係の重さと比較すれば、友達や恋愛や結婚は軽いものだ。その軽さもいいものだと思った。重さばかりでは息苦しい。だが、深みから生まれて、浮き沈みして、深みに帰っていくのだと思った。
狙いを権力の中枢に絞る
結局、息子の自宅でのEPの栽培はうまくいった。そんなある日、あの警察官が私服で居酒屋にやってきた。私とJとあの息子がいた。警察官は保冷剤に入った特効薬の瓶を息子に差しだして「すまなかった。これ同じものだと思う。使ってよ」と言う。Jも息子も「もう要らないよ。もっといいのがある」と言う。私は「あんたがそれを必要としているんじゃないか?」と尋ねてみた。警察官は「父がAK癌だ」と言う。Jも息子も即座に理解し「お前も大変だな。それを使うより…」と言っていた。それから警察官もカウンターに座って一緒に飲んだ。同じ境遇にあって、息子と警察官は仲良くなった。警察官も例のシソ科植物EPを自宅で栽培するようになった。私は種を無料で提供した。
このように、軍にしても警察にしても、独裁政権にしても、下っ端は普通の人間だ。市民と上層部の板挟みになって、彼らは辛いだろう。また、上層部と下っ端の板挟みになる中堅も辛いだろう。それらのことはいつの時代も変わらないと思った。狙いはますます権力の中枢に絞られてきた。
革命で大きく変わらなかった人生については、今、語っておいたほうがよいと思う。
例のシソ科植物の売れ行きは、どんな用途にせよ伸びて行った。「もしEPに効果があれば、お前はノーベル医学賞だ」と、JやWが私に言う。それが含む物質の抗癌作用は既に実証されていたから、それはありえない。かつての「ノーベル賞」なるものは、以下のようにして、より大きな賞になっていた。故人にも与えられる、平和賞を「総合賞」とする、医学生理学賞を「医学生物学賞」とする、情報科学技術部門、法学部門、環境保全部門、資源有効利用部門、音楽部門、美術部門…などの賞を新設する…などが変更点である。革命前は権力者とそれに利用される科学者しか、その賞を獲れなかった。革命直後はそれへの反動として以下のようになった。P教授(故人)と父(故人)とA国のグループGとB国のグループHが総合賞を共同受賞した。それとは別にP教授は法学賞、父は医学生物学賞、Xは情報科学技術賞、Yは経済学賞を単独受賞した。あの白血病の少女(故人)とあの地下の手記の筆者(故人)は総合賞と文学賞を共同受賞した。地下からはあの筆者の手記がまとまって発掘されていた。それをA2大学文学部の教授が鑑定し編集してくれた。
反政府グループGの同僚Y(♂)とZ(♂)は革命後、それぞれ普通の女性と普通に結婚した。私は結婚パーティーに行った。普通のパーティーだった。A1大学において、犠牲になったP教授を除き、あの学長とR教授を含めて、ほとんどの研究者、学者が留任した。
以下は革命からしばらくたってのことである。すっかりスラム街の人となり、A国籍を取得していたWは、A1大学で研究をし、例のシソ科植物EPが含む抗癌作用をもつ物質、をEPから単離し研究した。さらにその研究から発展して、あの母親が罹っていたAK癌を含むほとんどの癌を克服した。そのおかげで、あの母親は毎日、生で数把食べなくてよくなった。いずれにしても長生きしている。また、WはEPに限らずいくつかの植物の選別淘汰を進め、光量不足の室内でも栽培できるようにした。それらによって世界で、都会での緑化が進み、飢饉や食糧難が少なくなった。それらのことによって、Wは医学生物学賞と資源有効利用賞を受賞した。Jとあの息子とあの警察官は、スラム街で高層ビルを少しばかり改造して、Wが開発した植物を栽培できるようにした。それによって、会社を設立した。さらに、栽培できるビルを増やしている。Wはときに帰って来てそれを手伝っている。彼は「ここ(スラム街)で農業をするよ」という約束を文字通りに守った。ここでごく簡単な計算をしてみよう。単純に、a平方メートルで生産できる作物をbキログラムとしよう。a平方メートルの土地に百階建ての高層ビルがあれば、bの三十倍以上の作物を生産できる。
そこまでは誤算はなかった。ただ、雇用が生まれ、外の住宅街から中間層が政府主要施設近隣に移住し、「権力疎外」に支障を来した。それが私たちの数少ない誤算の一つだった。そこで、社会権を保障する人の支配系の行政権の長官になっていた同僚Yは、彼らの会社を郊外に移転してもらった。それによって権力疎外は維持された。
例の富豪夫妻は亡くなり、Jは子供二人を引き取った。といっても、子供らはほとんど独立している。私はほんのたまに帰って来て例の居酒屋でそれらの話を聞いている。Wがそれらを受賞した前の年に、全体破壊手段は全廃された。そのために、かつてB国の同僚だったVと私は、総合賞を共同受賞した。Vと私とそれらの妻子はもはや元の国籍をもっていない。私の妻は移住後も相変わらず「都会の中で生息し絶滅しつつある水生動物」の保護をやっている。私の子供二人は、Wにあこがれて農業に興味をもっている。母と妹は完全にE国の人となった。妹の夫は漁業をやっている。彼も約束を守った。あの悠々自適の革命家Uもある形で約束を守った。その後も、Uは悠々自適の生活に戻り、天命を全うした。さらに後に、Kの息子が、食用淡水魚類の開発によって資源有効利用賞を受賞することになる。
革命で大きく変わる人生については、後ほど。また、大きく変わったことが革命後に初めて分かった人生ついても、後ほど。
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