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小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"
NPО法人 わたしたちの生存ネット 編著
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全体破壊手段、不変遺伝子手段
しばらくして、同じ超大国Aの別のA2大学のQ教授が、私の研究室を訪れてきた。Q教授も私と同じ遺伝子操作の研究をする。Q教授は改まって、これからのことは内密にと言う。
十数年前、私の父はA2大学で遺伝子操作の研究をする教授だった。同じ大学にあり、研究分野も同じで、父とQ教授は親友だった。ある日、父は交通事故死として処理された。妻(母)と長男(私)と長女(妹)は、海外におり、すぐにかけつけられず、しばらくQ教授が家族代わりをした。私が初めて知ったのは次のことである。父は事故死とされた日の三日前に失踪していた。Q教授は最近になってその失踪が確認できたと言う。
以下はQ教授の情報を基に私とQ教授が確信したことである。
失踪中、父は政府または軍によって拉致され、生物学的兵器(不変遺伝子手段)を開発するための重要情報を提供するよう拷問された。父はそれを提供することを拒否し自殺したか拷問死した。死後、父は交通事故死として処理された。
この頃の拷問の方法はかなり精巧になっていた。まず、筋弛緩剤が静脈注射され、呼吸筋を除く横紋筋が麻痺し、完全に身体が拘束される。縄や鎖や鉄による拘束などというものではない。心筋と呼吸筋は機能するので、生命は維持される。末梢、中枢を含む神経系は機能するので、身体的苦痛と精神的苦痛はそのままである。身体的苦痛を与えられるまでもなく、この段階で既にかなりの拷問である。パニック障害をもっていなくても、パニック発作が頻発する。さらに、針などで身体的苦痛を与えられればなおさらである。また、眼筋も機能するので、眼球の運動によって拷問を受ける者は生きるか自殺するかの選択をすることができる。そもそも、生きるか自殺するかの選択を迫られること自体が究極の苦痛である。眼球の動きによって「自殺を選択すると、脳死を起こす薬が全身に流れる」と表示される。そこで多くの者は自殺を選択する。ところが、自殺できない。つまり、自殺選択ボタンは嘘だったのである。さらに、今度こそ自殺できるというボタンが表示される。またしても、それは嘘で自殺できない。それが繰り返される。拷問を受けるものは、苦痛と絶望を超えるものを、さらにそれを超えるものを体験する。その後で、自殺ボタンの代わりに、質問とそれに対する答えが入力できるキーボードが表示される。眼球運動によって入力できるようになっている。そこで、多くの者が権力者が欲する情報を漏らす。しかも、身体に残る証拠は、点滴の針の跡だけである。
そのように考えると、父が自殺するのは困難だろう。機器の不具合で本当に脳死を起こす薬が流れたのかもしれない。拷問担当者が、憐れんで本当に脳死を起こす薬を流したのかもしれない。いずれにしても父は苦痛や絶望を超えるものの中でも、生物学的兵器(不変遺伝子手段)の開発法を提供しなかった。
これからが私の苦しみである。父は私の教育について幼稚園の頃から厳しかった。特に語学、数学、物理学、生物学について厳しく、父は私の勉強法に何から何まで干渉してきた。父の価値観は、知識と能力と技術のない人間に、善悪をどうのこうの言う資格はない、というようなものだった。私はそんな父の干渉を嫌い、父に反抗した。A1大学に進んだのも、父のA2大学から離れるためだった。私はほとんど家に帰らなかった。家にたまに帰っても、父と話をしなかった。父が軽視するからこそ、私は自由権や民主制を尊重した。父が権威に見えたからこそ、私は権力に反抗した。その頃、私には権力全般に過剰に反抗する傾向があった。私のそのような傾向は、思春期の頃から父に反抗する中で形成されてきたのだと思う。私は、父と同じ遺伝子操作の研究の道に進んでいた。遺伝子操作を生物の絶滅に繋がりえないものにしようと意気込んでいた。それは部分的に、父に反抗するためだったと思う。その後、私は超大国Bに留学した。それも父から離れるためだった。そんな頃に父の「交通事故死」の知らせが届いた。私は数日だけ超大国Aに帰った。それも母と妹をサポートとしようと思ってのことだった。その頃、母と妹は父の勧めで南洋の島国Eに滞在していた。
私は、父の死後に特に、自己の権力全般に過剰に反抗する傾向に直面した。その直面によってその傾向が減退してきた。そして、権力者に反抗するのではなく、権力そのものを民主化し分立する必要があると思うようになった。もし、それへの直面がなかったら、私は単に権力者におもむろに反抗して抹殺されるだけの人間だっただろう。
以下はA2大学Q教授から聞いて、私が愕然としたことである。これからが本当の私の苦しみである。父は既に死の数年前から、塩基配列以外のものを変化させてしまった遺伝子まがいのものを「不変遺伝子(Immutable genes)」と呼んで、他の遺伝子と区別していた。遺伝子は五種類の塩基とそれを繋ぐヌクレオチドという鎖から成る。塩基の順列、つまり「塩基配列(Base sequence)」が生物のほとんどを決定する。遺伝子のうち塩基配列が変化することは突然変異に等しい。塩基配列だけを変化させた遺伝子を含む生物や手段は、突然変異を起こした生物と等しい。それらは従来の生物と同様に自然淘汰される。また、感染経路も知れている。また、なんらかの物質や熱や放射線によって消毒される。それに対して、遺伝子の塩基配列以外のものを変化させた遺伝子まがいのものを含む生物まがいの手段、つまり、「不変遺伝子手段(Immutable gene means)」は、第一に、突然変異を被らず自然淘汰を被らない恐れがある。第二に、従来のウイルス…などより速やかに広範囲に拡散し生物に感染する恐れがある。第三に、従来のウイルス…などと違い、消毒…などにより破壊されない可能性がある。第四に、免疫系によってブロックされない恐れがある。第五に、細菌やウイルスでは想像もつかないようなダメージを、例えば、神経細胞に対するダメージを生物に及ぼす恐れがある。それらの第一から第五によって、不変遺伝子手段は人間を含む生物を絶滅させる恐れがある。つまり、不変遺伝子手段は「全体破壊手段」である。
二千年代に入ってしばらくして、「全体破壊手段」と「大量破壊手段」が区別されるようになった。全体破壊手段とは、人間を含む生物のいくつかの種の全体を破壊する恐れがある手段である。そのように区別されたからと言って、大量破壊手段がおざなりにされてよいというのでは全くない。優先順位をつけなければならない場合に限って、全体破壊手段の全廃は、大量破壊手段の廃止より優先されるというだけのことである。全体破壊手段は、第一に核兵器、第二に不変遺伝子手段、第三に小惑星(Asteroid)の操作である。簡単に言って、原子核と遺伝子と小惑星の操作である。それらのうち、原子核と遺伝子の操作が危険であることは感覚的に理解されると思う。それに対して、小惑星の操作が危険であるとは意外だったと思う。太陽はいかなる形でも操作できない。地球を含む惑星や衛星も軌道を変えられるものではない。それに対して、小惑星は人間が発明した爆発物をもってすれば軌道を変えられる、と言えば、理解されるだろう。
遺伝子の塩基配列以外のものを変えるなかれ
だが、核反応や遺伝子操作や宇宙開発を手当たり次第に規制するのでは、一般市民の日常生活と欲求が過度に制限される恐れがある。特に市民の長生きしたい、家族や友人に長生きして欲しい、子どもに早死にされたくない、という願いは切実である。それらの日常生活と欲求が過度に制限されないためには、何が全体破壊手段かを確実に定義する必要がある。また、全体破壊手段が全廃されても、全体破壊手段を除く手段によって、日常生活を豊かにし、人間の欲求を満たすことが可能であることを、市民に提示する必要がある。特に、不変遺伝子手段を含まない医療によって、前述の切実な願いを満たすことが可能であることを示す必要がある。それが可能であることの一例は後に示される。
以下は全体破壊手段全般について言えることだが、ここでは不変遺伝子手段について述べる。不変遺伝子とそれ以外の遺伝子を区別し前者を予防しようとするものは、前者を知らざるをえず、不変遺伝子手段の開発方法もつかんでしまう。政治的経済的権力者はそれを吐かせようとする。そこでその者は拉致監禁拷問の危険にさらされる。家族友人恋人までが拉致監禁の危険にさらされる。私は父に反抗し、避け、死に際まで遠ざけたが、既に亡くなる数年前に父は私と同じ道を歩んでいた。そして、拷問の中でも父は、漏らしてはならないものを漏らさなかった。しかも父は家族への危険を予感し、母と妹を島国Eに疎開させていた。私はその頃、B国に留学していた。何通も父からメールがあった。私は開封もせず破棄した。
Q教授が帰った後、私は思わず泣いた。たまらなく悲しく悔しく涙が止まらなかった。父が拷問されるときには「漏らすな吐くな。吐けば科学者の恥だ」などと言う私が、父の中でよぎっただろう。そんな声に延々と拷問の苦痛が加わる。それこそが最大の拷問ではないだろうか。
その後、私は改めて、以下のように自己に直面した。私は思春期から父に過剰に反抗してきた。そのために、私には権力全般に過剰に反抗する傾向が形成された。父の死後、私はそのような自己の傾向に直面してきた。その結果、権力に過剰に反抗する傾向が減退してきた。そして、権力者を反抗するのではなく、権力そのものを民主化し分立する必要がある、と思うようになった。それは苦しく長い道のりだった。今、父の死の真相に迫って、私は権力者に復讐したり反抗したりするのではなく、自己のそのような傾向にさらに直面しようとしている。もはや私が権力者に過剰に反抗することはないだろう。権力者に反抗するのではなく、一貫して権力そのものを民主化し分立しようとするだろう。また、一貫して全体破壊手段を全廃し予防しようとするだろう。
私はQ教授とよく語り合うようになった。Q教授は父の開発したものは、確かに不変遺伝子手段、つまり全体破壊手段の開発に繋りえる。反面、安全な遺伝子治療や自然な食糧の開発にも繋がりえる。そのようにQ教授は考えて、父の研究成果をデータカードに詰めて厳重に保管していた。私もQ教授もそれらのうち、不変遺伝子手段の開発に繋がりえない部分を選んで、自分の知識と技術に同化した。その後で、それらのデータをネットワーク上でも端末でも完全に削除した。だが、拷問を受ければ、私もQ教授も吐いてはならないものを吐くだろう。それどころか、互いがそれを知っていることさえ吐くだろう。私もQ教授も、父やP教授のような強い人間になれない。立派な人になれない。私もQ教授もそれを正直に認め合った。また、いずれは他の科学者が同じ道に至るだろう。それなら、不変遺伝手段とそれ以外との区別法を積極的に公表し、前者を積極的に禁止する必要がある。「遺伝子の塩基配列以外のものを変えるなかれ」と。
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