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小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

NPО法人 わたしたちの生存ネット 編著

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小惑星の操作の全廃

  そんなE国でのある日、絶滅の危機が一つ訪れた。超大国Cによる小惑星(Asteroid)の開発中に事故で爆発が起こり、小惑星の軌道が変わった。数年後に地球に衝突または接近すると言う。惑星や衛星レベルなら多少の開発をしても軌道が変わることはない。それに対して、小惑星なら軌道が変わり地球に接近、または衝突する恐れがある。衝突せず接近しただけでも、地球の軌道が変わり、人間を含む生物が絶滅する恐れがある。地球の軌道が太陽よりになっても太陽から遠ざかっても、その恐れがある。
  諸国の人心は既に荒れていたが、すぐにさらに荒れ、略奪や強姦が増加した。また、ほとんど衰退していた宗教が再興し、大規模な祈祷が催された。集団自殺もあった。
  世界の科学者がC国に集まった。私も妻子をE国において、C国にやって来た。C国でもA国語が通じた。C国の政府と企業は自らの過失を認め、科学者と協議した。結局、小惑星の軌道を元に戻すことは難しいから、太陽から遠ざける方向でまだ現場に残されている爆弾を爆発させよう、ということになった。その通りにして、差し当たりの危機は避けられた。
  ここで私と何人かの科学者と政治家が主張したのは次のことである。爆弾が地球を救ったように見えるが、核兵器が正当化されることはあってはならない。天体の衝突、接近等によって生物が絶滅しそうなときに、核兵器によって接近してくる天体を破壊する、というのは二千年前後のSFやSF映画に過ぎない。人為的でない地球や太陽の激変によって人間を含む生物が絶滅するのは、自然の過程である。そのような自然の過程に人間がかまう必要はない。私たち人間が防ぐ必要があるのは、人間自身がもたらす絶滅である。簡単に言って、人間は人間にかまっていればよい。そもそも小惑星の開発を全廃する必要がある、と主張した。
  小惑星の開発に関する限りで、世界中で私たちの主張が通った。だが、それが通ったのは次の理由による。小惑星に学究的な価値はあっても、有益な資源は大量にない。他方、小惑星開発の経費は膨大である。だから、小惑星開発は利益を生じない。超大国も大国も含めて諸国がそのことを認識し、既に小惑星の開発から撤退しつつあった。だからである。ということは、どこかの小惑星で極めて有益な資源が発見されれば、また、同じことを繰り返すということである。だから、永遠に小惑星の探索も開発も禁止しなければならない。他の全体破壊手段も同様である。

区別することの重要性

  この事故の後の数週間に限って、C国の政権が言論に対して寛容な態度を取った。C国の市民、反政府グループのスタッフ、政権担当者と、世界の科学者が参加して、いくつかの場でいくつかの議論があった。それらのいくつかについて、いくつかの混乱が生じており、いくつかを区別することが重要だと思った。

遺伝するものとしないものの区別、種から種への進化と種内進化の区別、自然淘汰と人為的淘汰の区別

  過度の支配性や破壊性や権力欲求は、人間や生物の衰退や絶滅に繋がりえる。人間性の中で人間や生物の生存を保障しえるのは、それらの低さである。だが、それらの高さも低さも遺伝しない。遺伝しないものについては、自然淘汰も人為的淘汰もない。支配性、破壊性、権力欲求などは乳幼児期から後天的に形成されてきたものである。それらを減退させるものは、私たちのそれぞれが自己の悪循環に陥る傾向に直面することでしかない。
  厳密には進化とは種から種への進化である。ホモ・サピエンスという種が別の種になったとき、それが厳密に人間が進化したことである。そのような種から種への進化は百年や千年単位ではなく、万年単位で生じる。今の人間はまず、全体破壊手段を全廃し予防した後で、そのような進化について考えればよい。今の人間がそのような進化を考えることは滑稽である。
  だが、種の中での遺伝子の変化とそれに発する存在と機能の変化である「種内進化」もとらえることができる。そのような種内進化は百年単位、千年単位で生じえる。ここでは、そのような種内進化について考える。
  従来の生物の種は主として、その種とその種が作り出すもの以外を自然として、その中で淘汰され進化してきた。そのような淘汰が従来の「自然淘汰」である。それに対して、人間は、そのような自然の中だけでなく、人間と人間が作り出す道具や手段によっても少なからず淘汰されている。そのような淘汰による進化は従来の自然淘汰による進化とはかなり異質なものである。それをもはや「自然淘汰」と呼ぶことはできない。自然淘汰と「人為的淘汰」の混成物と呼ぶしかない。仮に人間が自然淘汰を重視し、自然淘汰のようなものを作るとしても、その一部は人為的淘汰でしかない。人間の淘汰が自然淘汰と人為的淘汰の混成であることは必然であり、それを人間は十分に認識しておく必要がある。間違っても、見せかけに過ぎない自然淘汰にまかせておけば人間もうまくいくだろうなどとは考えないことである。
  そのような自然淘汰と人為的淘汰の混成による種内進化の一例を挙げる。医学医療の進歩と福祉の充実によって、病弱な人間が生存し子孫を残す。それによって、人間が医療福祉が不可欠な病弱な方向に進化することは確実である。さらに一般に、医学医療を含む科学技術の進歩によって、人間がそれらがなければ生存できない方向に進化することは確実である。例えば、情報科学技術の進歩によって、人間は多くを知覚し連想し記憶する必要がなくなる。それによって人間の知能は低下し、大脳は少し退化するかもしれない。それに対して、自我と情動はコンピューターや人工知能が代わりをすることができるものではない。だから、自我と情動は維持されるか豊かになるかもしれない。だから、大脳辺縁系や自律神経系は、維持されるか、少し発達するかもしれない。いずれにしても、自然淘汰と人為的淘汰の混成による進化は人間の宿命であって、避けて通ることができない。そのことを人間は、良いも悪いも、認識しておく必要がある。

神経系の機能的器質的障害と悪循環に陥る傾向の区別

  支配性、破壊性のような(悪循環に)陥る傾向と権力欲求が、薬物療法や遺伝子治療や、はたまた、自然淘汰や人為的淘汰によって、減退するような誤解が生じている。陥る傾向と欲求は遺伝するものではない。また、それらは神経系の機能的器質的障害によるのではない。陥る傾向は、反復性うつ病性障害、統合失調症などの、遺伝することがあり、神経系の機能的障害による精神障害とは全く異なる。陥る傾向が、遺伝や神経系の機能的器質的障害や薬物療法や遺伝子治療や、はたまた、自然淘汰や人為的淘汰によって、亢進したり減退するとしても、他の自我の概略や他の種類の情動も含めて、自我と情動が全般的に亢進したり減退する。薬物療法や遺伝子操作でそれらを選択的に減退させることはできない。それらは生後に状況の中で自我の働きによって選択的に形成されてきたものである。それらを選択的に減退させるものは、私たちのそれぞれが自己の陥る傾向に直面することでしかない。

繁栄と衰退のサイクルと全体破壊手段の区別

  人間と言う種を除く限りで以下のことが言える。繁栄した種(A)は、その種の自然(AN)と他のいくつかの種(B)の自然(BN)を破壊し、AとBは衰退または絶滅する。A、Bの衰退によって、ANとBNは回復し、AとBは悪くても絶滅しない。それらの絶滅によっても、さらに他のいくつかの種(C)の自然(CN)は破壊されず、Cは悪くても絶滅しない。それらを生物の「繁栄と衰退のサイクル」と呼べる。今まで生物が生存してきたのは、そのサイクルがあったからである。
  現代の議論においても、そのサイクルへの信仰のようなものがある。だが、人間はそのサイクルを逸脱している。何故なら、現在の人間は全体破壊手段をもつからである。全体破壊手段が使用されると、A、BだけでなくCも絶滅する恐れがあるからである。

革命家に完全な隠遁のときはない

  C国で私は、伝説的革命家U(♀)と会った。かつて、C国の前身は、解体され消滅し、ある程度、民主化された。そのときの革命家である。解体・民主化を成し遂げた直後にUは若くして隠遁した。その後、C国は独裁化した。そのときもUは現役復帰せず、悠々自適の生活をおくっていた。独裁政権からの弾圧もなかった。この度の小惑星の事故もUは知ってはいたが、動かなかった。
  C国の首都からU宅までバスと徒歩で数時間かかる。郊外にはまだ自然が僅かに残されていた。遺跡もあり、バスに乗るほとんどは観光客だった。バスが山道を登り針葉樹林を抜ける。登るにつれて肌寒くなった。バス停に着いた。帰りのバスの時刻の確認を忘れないようにした。バス停から三十分ほど山道を歩いて登った。やがて、視界が開け、小さな村に着いた。予想通りの古びた隠遁所でUと会った。予想通りにUはとりとめもないことを語る。A国のA1大学のP教授の話になった。予想通りに「自分より先に亡くなるとは思わなかった」と言う。これは予想外で、Uは「Pと親密な関係にあった」と言い出した。P教授にとってはUは年上の人である。「若かりし頃のP」をまるで昨日のことのように語る。私は次第にそんな話が退屈になってきた。私はUになんらかの形での協力をお願いするために来た。だが、「三顧之礼」をしている時間はない。
  私にとって長いと感じられる時間が経った後、Uは自ら言った。「君たちの言う『民主化分権化』に、私の出る幕はない。だが、C国がもし他国に介入するようなことがあれば、私は黙っていない」と。そのときの私を見るUの目は、研ぎ澄まされた革命家の目だった、と私は思った。私は反射的に「よろしく」と言っていた。その後、Uの目は隠遁者の目に戻った。Uは一見したところ隠遁していても、世界の動きを注視し、動向次第で帰って来てくれると思った。考えてみると、Uは私たちの「国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること」も「民主的分立的制度」も、「民主化分権化」と言葉は変わっていたが、内容を把握してくれていた。私たちも、民主的分立的制度を確立した後も、それが維持されるか注視するだろう。また、全体破壊手段が全廃された後も、それが予防されるか注視するだろう。革命家に完全な隠遁のときはない、と思った。

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