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小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

NPО法人 わたしたちの生存ネット 編著

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権力疎外

  以下はそれらの目的を達成する手段の一つである。グループGと、諸国の同様の反政府グループは、政府と軍の主要施設近隣に一般市民が居住しない運動を展開していた。私たちはこれを「権力疎外」と呼んでいた。地球規模の権力疎外があれば、一般の戦争において、権力者と権力は、一般市民を犠牲にせず、互いを限定的に破壊することができる。全体破壊手段や大量破壊手段を使用する必要性が小さくなる。権力疎外は、全体破壊手段が実際に使用されたときに備えるのでは全くない。全体破壊手段が使用されれば、地球上のどこにいても無駄である。権力疎外は全体破壊手段の開発、保持、使用や全面戦争の必要性を減じる手段である。ここには国家という縦割りの構造に対して、世界の市民と世界の権力者という横割りの構造がある。
  権力疎外の目的は全体破壊手段を不必要にするだけではない。権力疎外は、全体破壊手段だけでなく、戦争全般に対して有効である。権力が権力どうしを破壊し合うだけで戦争が終わる可能性が大きくなる。仮に全体破壊手段が全廃された後も、また、予防されている状態でも、私たちは権力疎外を維持する必要がある。
  当初は私たちは権力疎外で、以上のような政治的効果を狙っていた。だが、以下のような経済的効果が既に現れていた。政府と軍の高官は主要施設から離れた郊外に住み、郊外から通勤するようになった。公私の大企業の本社と支社も郊外に移転し、重役らは郊外に移住した。さらに中級下級公務員を含む中間層も郊外に住むようになった。政府と軍の主要施設近隣の地価は低下し、五分の一以下になった。かつての高層オフィスビルは高層アパートに変り、家賃は十分の一以下になった。そこで、低所得者が主要施設近隣に移住した。そのようにしてスラム街が形成されていた。
  既に大都市は地下、地表だけでなく、地上の高所も、高層ビル、高層道路、高層鉄道…などで過密化していた。それらによって郊外に移住した高所得層、中間層は、政府と軍の主要施設に容易に通勤できた。政府は、スラム街にあった駅やインターチェンジの多くを閉鎖した。だから、スラム街の人々の主要な交通手段は、徒歩、自転車、バイクだった。つまり、スラム街の地上に雑多な交通手段が走っていたが、それらはスラム街を素通りするだけだった。スラム街の人々にとっては騒音と振動と太陽光不足があるだけだった。だが、スラム街の駅やインターチェンジを閉鎖したことによって、政治的権力者はスラム街に大規模に介入できなくなった。だから、スラム街に対する政府や軍の弾圧は少なかった。それらは、A国に限らず、世界的現象である。
  私たちはそのスラム街を潜伏所として選んだ。しかも、地下を掘って、地下に潜伏していた。結局、政府と軍のすぐ近くにスラム街と反政府グループの潜伏所が形成された。私たちはそれらを「二重円現象」と呼んだ。顔の割れていない同僚たちは地下に隠れる必要がなく、住民として街で暮らしていた。同僚は住民にも浸透し、いざとなればスラム街の人々数万人が集結し、政府と軍の主要施設を占拠できるようになっていた。それらも世界的な現象だった。
  A国の首都の政府と軍の主要施設の近隣には、以上のようにグループGが存在した。それに対して、首都以外の軍の主要施設については以下のとおり。人口増加によって、かつての辺境の軍事施設の近隣も過密気味になっていた。そこで、大なり小なりそれらの近隣でも私たちの言う「二重円現象」が生じた。グループGの分枝といえる、G1、G2…を形成し、首都以外の軍の主要施設の近隣に存在してもらった。ただし、政府にまだ顔が割れていない同僚に存在してもらったので、地下を掘る必要がなく、スラム街に潜伏してもらった。それらの同僚は住民にも浸透し、いざとなればスラム街の人々数千人が集結し、軍事施設を占拠できるようになっていた。そのような首都以外での動きも世界的現象である。
  これからは少し違う。他国では複数の反政府グループが犇めき合って潜伏し、共同または競合することがあった。このA国では幸か不幸か、他の反政府グループはなく共同も競合もなかった。数年ぐらい前までは他の反政府グループもあったのだが、政府と軍に殲滅されていた。それほど政府と軍の弾圧が厳しかった。また、A国の他のグループは、潜伏の重要性を軽視していたのだと思う。私たちは他国の反政府グループに潜伏することの重要性を伝えた。
  私たちが掘る地下が前述のような遺構ではなく、生きた施設らしいものの外壁に突き当たることはあった。だが、それは地下鉄や何かのパイプラインの外壁に過ぎず、私たちはただちにその方向に掘り進めるのをやめた。私たちのチャチな掘削機が、それらの外壁を突き破ってしまうことはなかった。むしろ掘削機が頻繁に故障し、私たちは修理と部品の調達に苦労した。
  政治的経済的権力者が非常時に逃げ込むような最新のシェルターは、郊外の地下の私たちの潜伏所や地下鉄とは比較にならない深さにできていた。政府と軍の主要施設からシェルターに専用の地下道が建設中だが、完成までに数年かかるとのうわさだった。そのようなシェルターの規模と質は諸国で差が大きいようだ。A国のシュエルターは最大とのうわさだった。いずれにしてもそのようなシェルターは一般市民にも反政府グループにも無縁だ、と私たちはこの時点では思っていた。
  経済的権力者は自社や自宅にかなりのシェルターを作っていた。だが、彼らはそのような私立のシェルターが信頼できないようで、公立のシェルターへの便乗を狙っているようだった。実際、彼らは公立のシェルターに相当な融資をしていた。地方自治体の権力者も、それなりのシェルターを作ろうとしたようだ。中央政府に援助を求めたが、難しいようだった。
  この時代、世界中に地方自治体設立の公的シェルターや市民が自主的に立てた私立のシェルターがたくさんあった。だが、一般市民はどのようなシェルターも信頼せず、全体破壊手段が使用されれば地球上のどこにいても無駄だと思っていた。いずれにしても、政治的経済的権力者が使用するような最新のシェルターとは自分たちは無縁だと、一般市民は思っていた。反政府グループの人間もそうだった。

敵や裏切り者の犠牲も少なくすること

  この頃、光彩認証は進歩していたが、依然、カメラに目を近づけなければ、認証できなかった。だから、通常の監視カメラでの認証は、近距離での光彩認証より、精度が低かった。だが、潜伏者が地上を歩いていて、監視カメラで探知される可能性は残っていた。この頃になると、同僚Xrらが政府の探知システムにも侵入して、データを盗んでいた。さらに、グループGの中で、政府から最新のデータを入手しつつ、スタッフごとに監視カメラで探知される確率を求めるシステムを構築していた。私たちは実際に様々な角度でカメラに映って、探知される確率を割り出した。すると、まず、Xは十パーセント、Yは五十パーセントだった。私は髪の毛はボサボサ、髭はボーボーになっていたからか、一パーセントだった。Zは早めに潜伏していたので、そもそも政府にデータがなかった。
  ある日、例の見せかけの反政府グループGFから、政権側のスパイを拘束した、と同僚Zに連絡があった。私もZもXも困り果てた。見せかけのGFでスパイを処分するようなことがあっては困るのである。ZはGとGFの間を既に往復していた。Zと私は、例によって登山服でGFの拠点に徒歩で向かった。久しぶりに見る地上は新鮮だった。ビルの谷間にも太陽の光が指し、わずかに残る街路樹の新緑が透けて見える。スラム街を出て住宅地に入ると、警察官が巡回していて、少し緊張した。スラム街に警察はいなかった。スラム街は政府に相手にされていないようだった。
  GFの拠点に入ると、彼らのいう「スパイ」が拘束され目隠しもされていた。スパイは「P教授のサマリーを読んで、共感して活動しようと思った」と言う。GFのスタッフは、特殊警察の身分証明証を私たちに見せ「入って来た当初は特殊警察の者であることを言わなかった。今になって分かった」と私たちに言う。スパイは「特殊警察に居たのは何年も前だ。そんな過去を言う必要はないと思っていた」と言う。実際、その身分証明証の発行年月日は数年前だった。有効期限は書いてない。写真は若そうだ。スパイは必死で懇願する。「本当だ。本当に革命を起こしたいと思っていた」目隠しされているが、汗がにじみ、涎が垂れている。GFの一人が銃のストッパーを外し、その音が軽く響いた。拘束されているが、スパイが震えているのが分かる。彼が銃を構える。Zがその銃を降ろさせる。私は、Zを手招きして、別室で密談した。私はZに「Gの本拠地はAM山の中のどこだと言ってある?」と尋ねた。Zは「『AM山の中』とだけ言ってある」と答えた。私は「『AM山の中の地下』とあのスパイにほのめかして開放してやればどうだろう」とZに言った。Zはすぐにその意味を理解した。広大な山の中の地下となれば政府や軍はずっと探し続け、偽情報であることも分からないだろう。GFのためにもあのスパイのためにもなる。
  私とZは戻った。スパイは失禁していた。鼻血も出ていた。「頼む。本当に革命のために尽くす」と声はもはやかすれている。Zは「本拠地のありかを知っているか」とスパイに尋ねた。スパイはしばらく黙った。知っていると答えれば、殺されると思ったのだろう。GFの一人が「AM山を知っているはずだ」と言う。Zは「AM山のどこか知っているか」と誰にともなく尋ねた。誰も知らなかった。私は軽く「AM山の地下じゃねえか」と言っておいた。
  そのスパイは開放された。従来通り、GFは転々とした。実際、GもGFも調べられたり潰されることはなかった。後にそのスパイも生存が確認された。

  私の新型ワインは、グループGで「密造密売」の段階に入った。これはどんなに工夫しても、味が違うから、政府公認の酒類にするには無理がある。だから、スラム街の人々の協力を得て、外の住宅街で高値で密売するしかなかった。まず、それが資金の増額に繋がった。それに対して、グループGは潜伏所で、私がかつて渡した製法を元に従来の酒類も製造していた。そして、空き瓶を入手するとともに、ラベルとキャップを偽造して、「政府公認」の酒とした。だが、それは、本物の政府公認の鎮静剤入りの酒類とは異なり、純粋な酒類である。それは本当の酔いを味わえる。それが売れすぎると、ラベルとキャップの偽造が発覚するだろう。そこで、それらをスラム街の飲食店、居酒屋に限って卸した。そのために、スラム街の居酒屋に行くと、何故か悪酔いしない、楽しく飲めるということで、外の住宅地からも客が来た。そのようにしてスラム街の居酒屋に関する限りで、貧富の格差はなく、居酒屋が一般市民の交流所のようになった。さらに、新型ワインの原料となっていた例のシソ科植物EPが、そのままで野菜としても旨く栄養があることが分かった。だから差し当たり、スラム街の飲食店と居酒屋にEPをそのまま卸し始めた。私はその卸を担当することになった。後に野菜としてのEPの製造販売が資金稼ぎの主流になった。さらに後には…それはまたのお楽しみ。
  私はそのうち潜伏所が退屈になってきた。髪の毛はますますボサボサ、髭はボーボーになってきた。それと薄汚れた作業着・作業帽姿で例の顔認証システムを試してみた。すると、探知される確率が零パーセントになった。私はそんな姿で街に出るようになった。スラム街には国籍、住民登録などの調査や捜査はなく、他国出身の無国籍者や、地方出身で住民登録していない人々が多数いた。その意味でも潜伏者には安全だった。
  政府施設や外の高級住宅街と比較するとビルは低い。ビルの谷間から見える空も比較的広かった。いずれにしても、二千年より前のスラム街とは高層ビルがある点で異なる。また、ヤクザ、麻薬等の製造密売グループ、売春婦や水商売女の斡旋グループ、人身売買グループ…などもない。それらは遠い昔に殲滅されていた。それらと政治的経済的権力が結託していたのは一部の地域でしかも遠い昔である。それらは政治的経済的権力のお荷物になっていた。だから、殲滅された。それほど政治的経済的権力が巨大になっていた。他の点ではスラム街は、従来とほぼ同じだった。高層アパートの家賃は安く、補修はなく、壁は汚れていた。だが、ビルの一階の薄汚れた大衆食堂や居酒屋がすごいリフレッシュになる。しかも、自作の混じり気のない酒類である。ほぼ毎日、通った。A国に公衆浴場の風習はなく、他国の風習も廃れていたのだが、スラム街にはあった。行きたかったが、さすがに行かなかった。潜伏所のシャワーで我慢した。散髪は評判の散髪屋があった。行きたかったが、この時点では髪の毛ボサボサ、髭ボーボーを維持するために行かなかった。ホテルについては、かつての高級ホテルが思いっきり大衆的なものになっていた。この時点ではいく必要がなかった。人々と話は大いにした。その頃には例のシソ科植物EPが野菜としても旨く栄養があることが分かっていた。私はそれを飲食店や居酒屋に安価で卸した。私はEPの製造と卸のお兄ちゃんで通った。スラム街の男や体力のある女の仕事のほとんどは土木である。どんなに機械やロボットや乗り物が発達しても、現場で資材を運び組み立てる仕事が残る。体力のないまたは体力を使いたくない女の仕事は水商売か売春である。遠い昔に売春は完全禁止となったが、スラム街には売春婦が住んでいた。ただし、スラム街の男たちはたいしたカネを持っていないから、彼女らは外の高級繁華街か高級住宅地まで赴いて仕事をしていた。売春は厳禁だけに、売春婦が稼ぐカネは相当なものだった。しかも、二千年より前にあったような買春や水商売の斡旋者を介さず、彼女らはインターネットで自力で客を探し当てていた。当然、納税はしない。買春の斡旋者がもはや存在しないのは、政府に殲滅されたこともあったが、売春婦や水商売女がインターネットで自力で客を探せるからでもあった。だから、女を食い物にする男は古典の中でしか出てこなかった。繰り返すが、暴力団と麻薬、覚せい剤等の薬物の製造密売グループは既に世界的に政府に殲滅されていた。もしそれらが残っていたら、私たちの資金稼ぎと競合し少しやっかいだっただろう。既にグループGは、私が開発したワインを密造密売していた。スラム街の人々の協力を得て外の裕福な人々に高値で売っていた。スラム街の人々には安価で売った。また、例のラベルとキャップを偽造した「政府公認」の酒類をスラム街の飲食店と居酒屋に安価で卸した。野菜としてのEPは、密売する必要がなく、当時は私が飲食店や居酒屋に卸していた。本来なら遺伝子操作されてない野菜だから高く売れるのだが、遺伝子操作された野菜並みの値段で卸した。スラム街の食料品店に並ぶのは安い遺伝子操作された野菜、果物か培養肉ばかりだった。自然で旨い食品を入手するには、外の高級住宅街の食料品店まで行かなければならなかった。子供や親の誕生日に食べさせてあげるために、自分たちは安価な食糧で我慢して、そこまで行って高価なものを買ってくる人々がいた。食料品店にもEPを卸したかったが、当時はまだ生産が追い付かなかった。

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